金子兜太を考える2018年05月06日

 立夏は5月5日。長いGWも6日で終わる。5日は登山日和だったがたまった雑用に費やした。まずは夏タイヤへの交換だ。タイヤを運ぶキャリーカートの車輪を交換した。古い車輪はホームセンターで引き取ってくれた。
 タイヤ4本載せても実に軽く移動できる。駐車場の狭い場所で冬タイヤを外し夏タイヤに交換する作業を4回繰り返すと汗が流れた。タイヤは重いので腰にも来る。これで全身の血のめぐりが良くなった。次々雑用が片付いた。
 よほど山へ行こうかと思ったが今後の生活を考えて内省を重視。たまった読書に費やす。昨日のタイヤ交換で腰に疲れが出た。

 俳句の原稿のこともあり、金子兜太の本を読みなおす。秩父の生れという風土性に土着の体質が良く似合うのだが、東大卒、日銀マンという貴族的身分に前衛俳句の洗礼をうける。

 前衛俳句とは「社会性・抽象性に富む傾向の無季俳句。」という。
 
 今井聖のツイッタ―「高柳重信は自分たちと、楸邨派(兜太や沢木欣一など)を識別するために「前衛」という呼称を後者に限定し攻撃しました。自分たちは「前衛」ではないと明言しました。では彼らは何だったのか、正統伝統派とでも呼ばれたかったのではないかな。まあ、新興俳句継承の盟主です。」

 芸術としての俳句のあり方について ─ 社会性をベースにした詩性の確立  日本ペンクラブ 北村 純一氏

「 社会性俳句が急速に閉塞した理由

 まず第一は、赤城さかえが「戦後俳句論争史」で、「今後の論者はこれらの引用で十分事足り議論の断片で意地悪く喧嘩をしかけることも可能である」と、自負とともにアイロニカルに断言したほど、昭和三十年前後に論議が高いレベルで出尽くし、その達成感に甘んじ、関心が薄れたことである。
 第二は、高度成長により資本主義の成長神話が生まれる一方、社会主義国のいわば自滅により体制論議が弱まった上に、既成の価値観が崩れポストモダンの考え方が広まったことである。」

 「風」の同人だった沢木欣一は「戦後より「風」誌を中心に社会性俳句を主唱。社会性俳句を社会主義イデオロギーを根底に持つ俳句と捉え政治性をはっきりと打ち出した。特に代表句「炎天に百日筋目つけ通し」を含む「能登塩田」連作(1955年)は話題を呼び、この連作を含む句集『塩田』は西東三鬼の激賞を受ける。
 日米安保条約改定後の1960年頃からは社会性を後退させ写実中心の作風に移行、正岡子規の写生説の見直しを行いつつ「即物具象」のスローガンを掲げた。後期の代表作に瓢湖での作「八雲わけ大白鳥の行方かな」(『白鳥』)がある。」

 沢木は晩年になると社会性俳句から遠のいていった。文部省の官僚になったこともあっただろう。ソ連の衰勢もあったと思われる。共産主義への疑問ではなかったか。

 しかし、金子兜太は違った。日銀マンと云う特権的地位にしがみつく意義は経済的にも大きいものがあった。日銀総裁の報酬は総理大臣よりも多かったほど優遇されている。
 資本主義のバックボーンとして日本経済の守護神としての役目を果たしながら、私的の場では親左翼を装い、中日・東京新聞「平和の俳句」の客寄せパンダ的な役割を果たした。
 先の戦争で苦労した、痛い目にあったという人はまだまだ多い。戦後のGHQは日本国民が悪いんじゃない、悪いのは軍部だと教育した。これで国民の多くは贖罪感を払拭できた。そして非武装、平和の日本国憲法を置き土産にしていった。憲法9条が変われない理由である。金子は9条の会にも招かれて講演している。

「戦後70年の2015年1月1日から1日1句を朝刊1面に掲載してきた「平和の俳句」は、2017年12月31日をもって、終了いたしました。

 平和の俳句は、現代俳句の第一人者の金子兜太さんと作家のいとうせいこうさんが、14年夏に本紙で行った「終戦記念日対談」をきっかけに発案し、お2人を選者として始まりました。17年10月の掲載句からは金子さんに替わり、俳人の黒田杏子(ももこ)さんを選者に迎えました。

 この3年間の投稿総数は、13万1288句に及び、多くの熱い思い、応援の声に支えていただきました。ありがとうございました。」
 知人の中日記者もこの企画は好評だったと言われた。

 ヤフーニュースから
https://news.yahoo.co.jp/feature/715
「自由な俳句は平和な時代だからこそ」古老・金子兜太が語る
2017/8/15(火) 12:49 配信

「俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんは97歳。白寿を目前にした現在に至るまで、時代を切り取る「社会性俳句」を詠み、俳壇の選者をつとめたり各地で講演をしたりと精力的に活動してきた。2年前、安全保障関連法案に反対するデモのシンボルとなった「アベ政治を許さない」の字を揮毫(きごう)したのも、金子さんだ。今なお衰えない発信の原動力を尋ねると「戦争です」と即答する。一世紀に迫る人生のターニングポイントや、経験から感じる時代の危うさについて語ってもらった。
(ノンフィクションライター・秋山千佳(元朝日新聞記者)/Yahoo!ニュース 特集編集部)」

「金子さんは「社会性俳句の意義は、今という時代を大事にすること」と言う。そして17文字ほどの俳句が、やがて時代を覆う空気を変えていくことに期待しているという。

「自由に俳句を作れるのは、平和な時代だからこそ。至るところで平和を匂わせるものを感受して、作品として提示し、戦争に対する警鐘を打つ。俳句なら誰もが声を上げられるし、その努力をすることに意味がある。そこから私と読者、さらに国民の間に議論が巻き起こってくれれば非常にもうけものだと考えています」」

・金子兜太は社会性俳句の最後の砦だった
・「アベ政治を許さない」と書いたって、これはもうバリバリの<隠れ>共産党員ではないか。議会制民主主義の否定につながる。選挙で選ばれた政治家を否定する俳人って?
・復員船で詠んだといわれる「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」は名句に値する。
・この後の兜太は川柳作家であった。
「川柳は、俳諧の<平句ひらく>が独立して文芸となったもので、発句として必用な約束事がありません。題材の制約はなく、人事や世帯、人情までも扱われます。」
「俳句には、<切れ字>が必用ですが、川柳では特にこだわりません。
 俳句は、主に<文語>表現ですが、川柳は<口語>が普通です。」
「俳句は、主に自然を対象に詠むことが中心でですが、川柳では、人事を対象に切り取ることが中心です。俳句では、詠嘆が作句のもとになり 「詠む」といいますが、川柳では、詠ずるのではなく「吐く」「ものす」などといいます。決して、詠ずるものではありません。」

・ちなみに川柳は俳諧の選者の名前である。柄井川柳がよく採用する句が川柳と呼ばれたのです。
・すると金子兜太の志向にあった句は俳句とは別の名前で呼ばれるのではないか。
・例えば「短詩」とか。「反戦詩」「平和詩」とか。
・草田男、楸邨らの人間探求派も実は川柳に先祖返りした句ですね。人間を詠めば川柳に近づいてしまいます。

 金子兜太の戦後の作品を川柳と指摘した批評や評論はまだ見ていない。左翼であることがメディアに頻繁に露出する機会が多く与えられた。イデオロギーの衣をかぶせた川柳をこれが俳句だと云い募っても大衆読者が疑問を抱くことはなかった。今後、俳句雑誌が金子兜太の追悼集を出すと思うので注目していきたい。

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