訃報 湯浅道男先生13日に逝去2018年04月16日

 本日、メールで訃報が届いた。日本山岳会東海支部の第六代支部長(1990~1994)をつとめられた湯浅道男氏が4月13日逝去された。葬儀は15日に済んだ。 
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 湯浅氏は早稲田大学OBで愛知学院大学法学部教授をつとめた。後に愛知学院大学法科大学院の設立にもかかわる重要なポストについておられた。愛知県警の警察官の法律を教育するなど活躍された。
 山岳分野では、愛知学院大学山岳部を指導育成、ヒマラヤ遠征に導いた。また愛知岳連会長もつとめられた。その後、体調が悪く山岳会からは遠ざかっておられた。

 「東海山岳11号」から湯浅氏の活躍部分を振り返る

       「愛知学院大学山岳部の台頭
 この年は湯浅道男の影響で愛知学院大学の学生が多数支部行事に参加する傾向が見られる。次の飛躍に向けて徐々に地固めしていくようだ。実際に1979年11月から1980年1月にかけて市橋隆二(7805)はガウリサンカール7146mの偵察に遠征している。1980年はガウリサンカール遠征登山に沸いた。7月9日日本ネパール国際親善隊壮行会は200名の出席を得て盛会だった。26日尾上総隊長以下22名が出発。ネパールでは協力事業が行われた。同時にガウリサンカール登山が実行された。しかし、この年の悪天候と難ルートにあえなく敗退した。
 4年後の1984年に成功を見たのであるが、6号まで待てず、その喜びの言葉を5号の序で設立以来20年の「宿命の対決」とし、最後に「東海支部の創始のこころは、決して忘れてはならないと確信している。」と結ぶ。」
 中略
 東海山岳「6号の外国登山記録にはガウリサンカール登頂の報告が巻頭におかれた。5号の序の尾上支部長の喜びの言葉を湯浅道男支部長もその序文に引いて実にすがすがしい。8年間も雌伏して支部らしい登山が成功するのを待っていた尾上のこころを慮ってのことである。 このころは愛知学院大学山岳部をはじめとする若い支部員の活躍の時代になっていた。その指導者として湯浅の存在は大きかった。それだけではない。小川務と徳島和男らの天山山脈・雪蓮峰への遠征は5年間、第4次隊まで執拗に続けられてようやく落ちた。」

 個人的には湯浅支部長時代(1990~1994)に私と名古屋山岳会のO氏と野伏ヶ岳のスキー登山した時の記録を「岳人」に発表した。その記事を読まれた湯浅氏が、「あれで良いんだよ」と明るい声でお褒めいただいた。当時は他の山岳会と登山してはいけないというタブーがあったのだ。個人山行だからということでO氏がつきあってくれたものだったが、思わぬ反響があった。良く眼に留まったものである。
 支部長退任後は愛知岳連会長に就任されたが余り長くは無かったと記憶している。今となっては法科大学院の準備に追われていたのだろうと推察する。最後に見たのは50周年のイベントのあいさつに立たれた姿であったと思う。
 著作は私家版『たかが山登りされど山登り』の恵贈を受けたことがあった。奥山章『ザイルを結ぶとき』のなかに略年譜をまとめている。また佐瀬稔『喪なわれた岩壁―第2次RCCの青春群像 (中公文庫) 1999』の中にもクライマーとして登場する。