二ン月や水脈(みお)の果てへと逝く兜太2018年02月23日

 現代俳句界の大御所だった俳人・金子兜太さんが逝って新聞各紙が追悼文を掲載している。
 代表句はいろいろ紹介されたが、今までに知らなかった句も多々ある。中でも処女句集「少年」に所収の

  水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る 

は良い。五七五の有季定型ということもあってリズムがあり当方にはなじみやすい。追悼句そしてオマージュとして表題の句を作った。金子さんの原点かも知れません。戦争で多くの戦友を亡くした。自分だけ生きて帰って良いものか。そんな戦友への想いが平和の尊さにつながり、反権力につながったのだろう。彼の世では戦友らと句会でもやるのだろう。

 朝日新聞は「金子さんは「俳句にも社会性が必要」と同時代の思想や時代背景を積極的に詠み、時に実験的な手法も用いて俳句の革新を試みた。一方で、民衆の心をうたう詩として普及につとめた。悲惨な戦争の体験者として不戦を訴え続け、晩年まで政治や国際情勢に関心を抱き、きな臭くなる社会の行く末を案じていた。

 力強い作風の原点には、海軍主計中尉として赴任した南洋・トラック島での戦場体験があった。

 「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」は、15カ月間の捕虜生活を終え、日本へ帰る船上で作られた。戦争がない世の中をつくり死者へ報いるという決意は、「朝はじまる海へ突込む鷗(かもめ)の死」「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」など初期の作品から、近年の「左義長や武器という武器焼いてしまえ」にまで一貫した。」
 
 中日春秋子は「 <水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>。九十八歳で逝った金子兜太さんの戦後は、この一句とともに始まったという」と書いた。

 毎日新聞は「金子さんには大きな原点がある。戦時中、海軍主計中尉として日本銀行勤務を中断して派遣されたミクロネシア・トラック島での悲惨な体験から拭いがたい影響を受けた。終戦後、餓死者が相次ぐ捕虜生活の心のよりどころとして軍人・軍属を集めた句会を催し、生き残った者で力尽きた仲間の死を弔う質素な墓碑を用意した。

 水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

 1946年の引き揚げに際し、遠ざかる島を艦上から見つめて詠んだ。「亡くなった仲間のためにも、戦争のない世の中をつくろう」という決意は終生変わることがなかった。」

 NHKは「近代俳句の世界では、自然のありようをそのままに詠む「花鳥諷詠」の考え方が理想とされていましたが、金子さんはこうした伝統に異を唱え、人間や社会の姿を詠む自由な表現で戦後の俳句界に一石を投じました。
 そうした金子さんが生涯を通じて表現し続けたのが、平和と反戦への思いでした。原点となったのは20代のときの戦争体験です。
 海軍中尉として赴任したミクロネシアのトラック島では、米軍の爆撃や食糧不足による餓死で多くの戦友が非業の死を遂げ、戦争の残酷さとむなしさを目の当たりにしました。
 敗戦後、1年3か月の捕虜生活を終えた金子さんは、日本への引き揚げ船の甲板の上で遠ざかる島に眠る死者たちに思いをはせながら、「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」という句を詠んでいます。」
 
 日経新聞は「――終戦の直後にいくつかの代表的な句を詠んでいます。

 「あの日のことははっきりと覚えていますね。全将校が集められて、無電で受けた詔勅を聞かされました。それから自分の宿舎へ帰って、日記類を燃やした」

 「『椰子の丘朝焼けしるき日日なりき』の句が浮かんだのはこのとき。その後に詠んだのは『海に青雲生き死に言わず生きんとのみ』という句です。とにかく生きて、ばかげた戦争のない国にしていこうという気持ちでした」

 ――捕虜生活の後、日本に帰還しました。

 「餓死者を出した、これは主計科の士官として仕事を全うできなかったということです。若くて元気のいいアメリカの海兵隊を見て餓死した人のことを思い出しました。筋骨隆々としていた人がだんだんやせ細って最後は仏様のような顔になって死んでいった」

 「『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は餓死した人を思いながら、船尾から遠ざかる島を見ていたときに作った句です」」