公社俳人協会愛知県支部新年の集い2018年01月25日

 今日は栄のホテルで11時30分から俳句団体の新年会の日。マンションを出ると折からの大寒波襲来で名古屋も震えあがるような寒さだ。その上に降雪もあり道路は圧雪路になりクルマの通行が大変だ。歩道も日影には圧雪が残り靴の裏全体で歩いて転倒しないように心がけた。地下鉄を出てホテルまでも圧雪の上の歩行に神経を使った。市バスやタクシーなどはタイヤチエーンを装着して、道路を爪で引っ掻くような音をさせて、いつもと違う都心の風景を見せてくれる。
 会場のホテルへは11時きっかりに着いた。会員諸氏はまだこれからで私はトップに近い。
 私は昨年入会したばかりなので新参者である。団体のことは何も知らないことばかりであるから新年のはじめに一堂に会するこんな機会は見逃せない。俳句をつくり、選句し、発表するのは結社に所属しておれば一応は充分だが、超結社の俳人間の交流の場として設立された。
 定款には「俳句文芸の創造的発展とその普及を図り、もってわが国文化の向上に寄与することを目的とする。」とあり、所属結社の主宰の推薦が必要になっている。つまり俳句結社の上部団体である。
 別に所属する山岳会でも社会人山岳会が公社日本山岳・スポーツクライミング協会傘下の愛知県山岳連盟に団体加盟するのと同じである。但し、結社の推薦はいるが個人加盟ではある。ちなみに俳句の上部団体は3つある。
 昭和22年に現代俳句協会が設立。会員数6200名。金子兜太氏が名誉会長として君臨している。このことから左翼傾向の俳人の集まりだと推定してもまちがいはない。社会性俳句とか前衛俳句とか俳句に新鮮味を持ち込もうとしたのだろう。
 金子兜太の俳句の本はたくさん買った。氏の原点を探るために父の伊昔紅の句集も手に入れた。まったく穏当な句柄である。医師として上海の東亜同文書院の校医になり、子の 兜太も行った。
 映画監督の小津安二郎は社会性というが人間を丁寧に描けば社会は見えてくると発言していた。戦後しばらくは共産主義の影響で映画界もイデオロギーにゆれていた時代を反映している。感受性の人一倍強かった氏は幼児ながら上海の空気を吸ってコスモポリタンな社会への受容性を培ったのだと思う。
 朝日文化人と言われた朝日新聞という大メディアから生涯離れなかった。常にメディアに露出して古い人というイメージを持たれずに済んだ。これが今日まで続けて来れた大きな原因である。
 高浜虚子と河東碧梧桐の差はメディアの活用力と言える。その虚子も秋桜子らの新興俳人の後塵を拝することになる。
 昭和36年に俳人協会設立。発足時36名から平成2年に1万人突破、同21年に15千人突破、同29年は15291名と公表。推移をみると順調に成長の一途である。
 昭和62年に日本伝統俳句協会が発足。基本的にはホトトギスの法人化だろう。ホトトギスをそのままやると文科省のお役人の監査が入るから別法人にしたと見られる。会員数は非公開だが会費収入÷年会費で約3000名前後か。
 以上の団体はすべて公益社団法人である。一番のメリットは寄付金を募りやすいことだろう。但し、公益事業を毎年毎年執行していかねばならずどこも同じ趣旨の団体なので運営は大変だと思う。
 
 さて11時30分になり開会。伊藤敬子支部長のあいさつ、伊藤氏は毎週月曜朝のNHKラジオの俳句番組で聞いているのでなじみはある。
 ゲストの理事・徳田千鶴子氏(水原秋桜子の孫)の話に入るが騒がしさに消されて良く聞こえなかった。秋桜子の話を聞きたかったが孫では無理かもしれません。「伊吹嶺」主宰の栗田やすし氏が遅れて到着。緑区ながら2時間もかかったとか。さらに遅れて西尾市から「若竹」主宰の加古宗也氏も着いた。これで揃った。
 乾杯に続き料理が運ばれて宴会になった。その間に各結社の自己紹介のスピーチになった。結社の中心人物が亡くなって思わず泣き出す人、中でも「耕」の某氏は出身地が富山市とあって望郷の想いが募るのか、富山城址の前田普羅の文学碑の俳句を紹介されたのはちょっと驚いた。
 秋桜子門にあって韻文精神を強く訴えた石田波郷も師系を越えて俳句の本質に迫る発言をはばからなかった。普羅忌の句を詠んでいることからも評価していた。この方も「耕」のコラムを読んで普羅の詠む越の風土性つまり地貌俳句に魅了されていると分かる。その方の骨格には立山の風姿が貫いている。大都会は学ぶ機会が多く仲間も得やすいが俳句の環境としては今一である。
 私にもマイクが来たので「辛夷」の話と名古屋での俳句活動を若干話した。皇太子の好きな立山の句の話もさせていただいた。
 東海地方では普羅は無名に近い。とはいえ、加古宗也氏の『定年からの俳句入門』にも多く引用されている。知らないはずはないが、師系を重んずると軽視されがちになる。名古屋の有力結社は秋桜子系、沢木欣一系、村上鬼城系になろうか。水面下には多数の師系の雑誌が継承されている。
 この地方なら中日新聞のメディア力を味方にしたかどうかで発展に差が出る。山口誓子は朝日新聞と中日新聞の両紙の俳壇選者で知名度を維持した。岡井隆がコラムでもう句業を終えて良いのではないと書いたほどだ。
 宴たけなわとなって白髪の紳士が隣に来られた。栗田主宰がヒナ壇の席を離れて「伊吹嶺」の弟子の席にビールをついで回られた。私にもいただけた。お名前だけは存じあげておりますとあいさつ。「辛夷」の中坪主宰には富山市で白海老をたっぷりごちそうになったそうだ。
 師の沢木欣一は「風」を主宰。金沢大学の講師であった。かつ弟子の中西舗土(俳誌「雪国」主宰)に前田普羅のことを書くように勧めたのも沢木であった。沢木自身は秋桜子の選句をうけていた時代もあった。また俳人協会会長の任にあった。栗田氏も北陸とは不即不離の関係で馴染みがあるのだろう。
 「僕はもうすぐ消えてしまいますから」と冗談めかして行かれた。意味不明だったが「伊吹嶺」の主宰を引退し顧問になると分かった。発展のための若返りだそうだ。顧問のままで終わるわけもない。多分、先々の俳人協会会長就任(現在は副会長)への布石ではないか。河東碧梧桐研究の第一人者である。忘れられつつある俳人の研究を通じて俳句文学に貢献した実績は大きい。河東は山岳俳人の嚆矢である。
 宴も終盤となった。伊藤支部長から愛知県支部運営に関してちょとした疑義が発言されてヒナ壇の人に振られた。加古宗也氏は幅広く交流の場にするべきと発言。中々に深い見識に共鳴するところ大であった。先に紹介した入門書を読んでも先人の悪い影響を批判しながら展開している。俳句だけでなく社会もよく観察している。
 定刻通り終わった。最後になったが司会役の丸山洋一郎氏(笹)は司法書士事務所を経営。来月は氏の研修を受講する予定であった。それだけを告げて名刺交換させてもらった。世間は狭いと思った。

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