池田輝政と姫路城までの軌跡2017年11月19日

姫路城2017.10.28雨
 11/9に豊橋市に所用で行った際、駅前の精文館書店で『三遠の民俗と歴史7号』(三遠地方民俗と歴史研究会編)を購入した。立ち読みしたら、中野豊光氏の「池田輝政の飛躍は吉田城にあった」という論考が目についたからだった。
 テーマは「豊臣秀吉によって愛知県豊橋市の吉田城に入り、徳川家康によって姫路に移った」ことである。冒頭にメインテーマを掲げて、後で肉付けしてゆく。
 輝政は時に27歳にして15万2千石に取り立てられる。そして吉田城を10年間にわたって城下町とともに拡張してゆくのである。
 輝政31歳にして、何と家康の娘督姫(30歳)を娶る。秀吉の死後、1599年の関ヶ原の戦いでは当然、家康につく。これで52万石の加増となり姫路城に移った。本書はここまでの記述で終わる。
 輝政の吉田城時代の仕事ぶりが秀吉のみならず、家康の目にも留まったであろう。秀吉の一声で督姫を娶らされるが、それが一大転機となった。姫路城の改築には吉田城での経験が良い試練になった。
 輝政の才覚もさることながら池田家には相当先の読める家臣がいたにちがいない。織田家+家康を相手の長久手の戦いでは家来に戦に行くのを止められた運、秀吉の指示で吉田城を任された運、家康の娘と縁を結んだ運、関ヶ原の戦いでは家康の計らいで実戦には加わらず、大切にされたことが伺える。
 人生はことごとく運である。とはいえ、どんな人間性だったのか。運ははこぶものだ。信長には勇断と細心を学び、秀吉には細かい配慮と深謀遠慮を学んだだろうし、家康からは待つこと=辛抱(運が巡ってくるまでの)と愚直を学んだか。輝政の生涯には三英傑の人生の知恵が詰まっているかに思う。

 話は前後するが、10月28日は行政書士の支部旅行で姫路城へ行った。あいにく雨にたたられたが、立派な城だった。ガイドさんの解説の名前に本多などの名前が出てくるとここは尾張と三河勢で固めてあると知った。もう一度丁寧に歩きたいものだ。
 退城後は日本料理屋の「生松」で美味しい御馳走をいただき、さらに酒蔵も見学して新幹線で帰名した。
    秋雨や生松の味旅の味    拙作

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