猿投山の北尾根と戸越峠界隈を歩く2017年11月19日

北尾根で見つけた滑子
 余りの暑さに負けて撤退した7/15の再挑戦である。8時30分に県道33号から沢に伸びる車道に入る。7月はムンムンした草いきれと水滴でびしょぬれになったが、今は落葉し草も枯れて踏み跡も明瞭になって歩きやすい。車道終点から沢に下りる。沢歩きといっても沢足袋などは使わず、登山靴のまま渡渉するのである。
 最初は傾斜も緩くどんどん遡る。すると最初の堰堤に当たるので左岸から巻く。また沢床に下りて溯ると最初の分岐に出た。左又へ行く。先月の台風でまだ緑の葉をつけた灌木が倒れてやや歩きにくい。7月には見なかった赤テープがあるので好事家が入渓しているのだろう。
 7月には右岸の高巻をしたが、今回はゴルジュに入った。風化花崗岩の地質であるが、両岸が切り立っているからゴルジュと言える。左岸の山腹の根こそぎの倒木が沢一杯落ちて前途を阻んだ。小滝もあるので右岸から巻いた。巻きあがった所は7月に左岸から北尾根にエスケープした所だった。ここで一旦ゴルジュは途切れた。
 ゴルジュは滝の後退という。その通りである。滝が落ちて浸食が進むと沢が削られて、溝状になるのだ。
 今回はエスケープ地点からも沢を進んだ。ゴルジュではないがV字形の険しい渓谷であある。猿投山の秘渓といいたいが、高巻道はあるし、山腹に古い道形が残っているので知る人ぞ知る溪であろう。第一、二次林や植林の山では自然味は少ない。険しさだけが取り柄である。
 二股ではスマホでチエックをしてもらったが、必ずや赤いテープのマーキングがあった。これを信じて進めば問題ない。とはいえ、先蹤者にもミスはあるので注意するにこしたことはない。
 どんどん進むうちに沢が立ってきて傾斜が強くなった。元々細かった水流も途絶えた。稜線が明るくなってきた。落石に注意しながら這うように登った。源流が広がり右手の尾根に乗り移ると踏み跡や赤テープがあった。たどっていくと北尾根の界標131に達した。10時30分、2時間が経過していた。ここで小休止。
 南へ歩くと、赤テープを2重に巻いた分岐に着いた。これが地形図の破線路の道だが、7月はここから踏み跡をたどったがすぐに見失い、藪尾根を強引に下って東大演習林の林道に下りて県道に出た。
 分岐から南へは独立標高点480mへ行き、猿投山に達する。11時となり、登頂すると往復2時間、下山1時間30分を見込むと日没につかまる恐れがあるので引き返した。
 再び、沢からあがった地点に戻り、北尾根の急斜面の山腹とやせ尾根のマーキングをたどりながら北進する。地形図の戸越峠の「越」のところのコブには左を巻く赤テープと直進に分かれた。左は峠へ行くのだろう。直進してコブに達し、右折した。このコブから右(東)への踏み跡やマーキングがあった。明瞭な尾根であったから不安なく下れた。最初の右又と左又の分岐だった。沢床を行くと2回目の堰堤があり左から越える。すると良い道がまた沢に下っていく。さらに最初の堰堤も左から越えてすぐに車道に出会った。後はマイカーまで戻った。帰路につくと間欠ワイパー程度の小雨になった。猿投山は黒い雲に巻かれていた。時雨模様の寒い1日だった。
 帰路は保見から長久手市に周り、「ござらっせ」で入浴して体を温めて帰名した。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/07/15/8621285

池田輝政と姫路城までの軌跡2017年11月19日

姫路城2017.10.28雨
 11/9に豊橋市に所用で行った際、駅前の精文館書店で『三遠の民俗と歴史7号』(三遠地方民俗と歴史研究会編)を購入した。立ち読みしたら、中野豊光氏の「池田輝政の飛躍は吉田城にあった」という論考が目についたからだった。
 テーマは「豊臣秀吉によって愛知県豊橋市の吉田城に入り、徳川家康によって姫路に移った」ことである。冒頭にメインテーマを掲げて、後で肉付けしてゆく。
 輝政は時に27歳にして15万2千石に取り立てられる。そして吉田城を10年間にわたって城下町とともに拡張してゆくのである。
 輝政31歳にして、何と家康の娘督姫(30歳)を娶る。秀吉の死後、1599年の関ヶ原の戦いでは当然、家康につく。これで52万石の加増となり姫路城に移った。本書はここまでの記述で終わる。
 輝政の吉田城時代の仕事ぶりが秀吉のみならず、家康の目にも留まったであろう。秀吉の一声で督姫を娶らされるが、それが一大転機となった。姫路城の改築には吉田城での経験が良い試練になった。
 輝政の才覚もさることながら池田家には相当先の読める家臣がいたにちがいない。織田家+家康を相手の長久手の戦いでは家来に戦に行くのを止められた運、秀吉の指示で吉田城を任された運、家康の娘と縁を結んだ運、関ヶ原の戦いでは家康の計らいで実戦には加わらず、大切にされたことが伺える。
 人生はことごとく運である。とはいえ、どんな人間性だったのか。運ははこぶものだ。信長には勇断と細心を学び、秀吉には細かい配慮と深謀遠慮を学んだだろうし、家康からは待つこと=辛抱(運が巡ってくるまでの)と愚直を学んだか。輝政の生涯には三英傑の人生の知恵が詰まっているかに思う。

 話は前後するが、10月28日は行政書士の支部旅行で姫路城へ行った。あいにく雨にたたられたが、立派な城だった。ガイドさんの解説の名前に本多などの名前が出てくるとここは尾張と三河勢で固めてあると知った。もう一度丁寧に歩きたいものだ。
 退城後は日本料理屋の「生松」で美味しい御馳走をいただき、さらに酒蔵も見学して新幹線で帰名した。
    秋雨や生松の味旅の味    拙作