熊沢正夫ノート2016年12月16日

 『上高地』を読むと序文から圧倒された。26歳の時の何とみずみずしい文であることか。

「晴れた日の空を仰いで見るとき透徹した大空の青い色ほど美しく又すがすがしいものはない。青空に浮かんで絹のように白く光り輝く一塊の入道雲の動きほど、大自然の無限の力を暗示するものもあるまい。中天に峭立し、白雲をいただいた高峰はたとえそれが地表の突起であっても動かすべからざる意思そのものの権化で大空に戦を挑んでいるのではないか!」以下略

 おそらく八高時代に漢詩を学び文章鍛錬を良くされたと思わせた。口語文だが簡潔な中に格調があり、写実的だが詩的高揚感がある。漢詩文の文脈で書かれたと感じる。
 八高 漢詩でググると中国からの留学生がヒットする。

「郁達夫八高入学百周年記念展示会」から抜粋

「郁達夫は一九一三(大正二)年、魯迅や郭沫若と同じように日本に留学した。一九一五(大正四)年の秋、八高の三部(医科)に入学、 翌年一部(文科)に転じ、 一九一九年夏までの約四年間を名古屋の地で過ごした。後ほど、東京帝国大学在学中、留学生仲間の郭沫若、張資平、成仿吾たちと文藝雑誌発行の計画を進め、当時中国新文壇に
おける大きな文学結社―「創造社」の創立となり、出世作『沈淪』が生まれた。」
「愛知の地で名高い漢詩文学者服部擔風は、当時『新愛知』漢詩欄の選評者の一人であった。郁達夫の投稿詩について高く評価した。一九一六年暮春、二十歳に満たない八高生の郁達夫は、当時弥富町にある服部擔風宅を訪ね、初めて擔風先生に面会した。帰りに、人力車に乗る郁逹夫を年長者である擔風先生は歩いて弥富駅まで見送り、感銘を受けた郁達夫が、 「訪擔風先生道上偶成」の詩を書き、擔風先生は「次韻詩」を以て評語とした。その後、漢詩を通じて二人は深く親交を結んだ。」とあった。

http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/hatutoritannpuu.htm
lから服部擔風の漢詩を引用

    郁達夫来訪  有詩
弱冠欽君来東海。     弱冠 欽す君が 東海に来り
相逢最喜語音通。     相い逢うて 最も喜ぶ 語音の通ずるを
落花水榭春之暮。     落花 水榭 春の暮
話自家風及国風。     話して家風より 国風に及ぶ

・・・春風のような暖かい人柄まで伝わる。

 大正時代の新愛知新聞(中日新聞の前身の一つ)には今につづく俳句や短歌に続いて漢詩の投稿欄があったのだ。石川忠久『漢詩を作る』(大修館書店)によれば、「ただ、すべての新聞から「漢詩蘭」が消えたのは、大正6(1917)年だということ」らしい。とはいえ、 そういう文学的風土が名古屋にもあり、中国人とは漢詩のやりとりができるんだからレベルも相当な高さを想う。
熊沢正夫の入学とは数年のズレがあるが文化は醸成されていた。漢詩は衰退はしたが残光の中で学ぶことはできた。私の想像は外れていないと思う。日本は文明開化を急ぐあまり良い文化まで捨ててしまう。

 復刻版『上高地』に入っていた冊子を読むと「名古屋大学山岳会会報第三十三号の「熊沢正夫追悼特集」(1983.3.)」があることを知った。名古屋大学附属図書館にWEBから閲覧の希望を申し入れたがない。さらにネットでググるとほとんどは名大ワンゲル部の情報だったが最後に名大山岳部掲示板がヒットした。そこに書き込まれたOBのアドレスにメール。本人は持っておらず、2名を紹介していただけた。その1人が保管しておられた。早速PDFで送っていただいた。

 熊沢正夫は登山に熱中しながらも江戸時代の俳句にも通じている。飛騨にある芭蕉の高弟・凡兆の句碑は私も行ったことがある。あの俳句の樟の木についての見解が面白い。俳句への関心も実は植物学者らしく、あんなところに生えない、というばっさり。
   鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ     野沢凡兆
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/06/06/4346470
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/07/21/4448556
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/07/21/4448560
 ネパールへ行っても飛行機の窓から眺めてネパールは原生林を伐採していることをはっきり見て取った。

 熊沢正夫の略歴は以下の通り。
明治37(1904)年 名古屋市生まれ
東海中学校、
大正12(1923)年 19歳 第八高等学校入学、山岳部入学
大正13(1924)年12月 積雪期の木曽駒ヶ岳に初登頂 
昭和元(1926)年 22歳 八高を卒業後、東京帝国大学に進学、スキー山岳部に所属、山稜会(八高山岳部OB会)設立
昭和4(1929)年 25歳 理学部植物学科卒業、
               日本山岳会会員(No1129)になる。
昭和5(1930)年 26歳 『上高地 登山と研究』出版
昭和8(1933)年 29歳 金沢の第四高等学校に赴任、結婚
昭和9(1934)年 27歳 共著『登山とキャムピング』出版
昭和17(1942)年 38歳 第八高等学校へ転任
昭和24(1949)年 45歳で名古屋帝国大学教授
昭和28(1953)年 49歳 名古屋大学山岳会設立 顧問に就任
昭和41(1966)年 62歳 同会会長になる
昭和42(1967)年 63歳 日本山岳会東海支部第三代支部長に就任
昭和43(1968)年 64歳 名古屋大学を定年により退官
                マカルー遠征の委員長に選ばれる。
昭和45(1970)年 66歳 マカルー学術遠征隊の総指揮を執る
昭和47(1972)年 68歳 東海支部は休会に追い込まれ、熊沢氏宅で行われる。
昭和49(1974)年 70歳 東海支部支部長を退任
昭和54(1979)年 75歳 学術書『植物器官学』出版
昭和57(1982)年 78歳 死去
昭和58(1983)年 「名古屋大学山岳会会報第三十三号の「熊沢正夫追悼特集」を発刊
昭和63(1988)年 『上高地 登山と研究』復刻版を名古屋大学山岳会が出版

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