志賀重昂ノート2016年07月26日

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文久3(1863)年12月25日 岡崎市康生町に誕生

明治元(1868)年 6歳の時、父・重職死去。
父は岡崎藩の儒学者で佐幕派。没後は家禄は没収される。母・淑子の実家の松下家で育つ。
・父は明治維新で失業した上に死去。
・志賀重昂は逆境に育つ環境にあった。
・後々に上司とトラブルを起こすこと度々は反骨精神もこ時期のものか。

父重職(しげつね)が明治元年、京都の藩邸で病死しました。志賀 5歳です。跡継が 15歳未満のため家禄没収となり、母の手で生計を立てる貧しいもので、父の門人の援助で志賀は学校へ行けたのです。

明治7年(1874年)11歳より攻玉社で英学・数学・漢学を修めて同11年(1878年)に退学。
・漢詩文の素養はこの時期の学習による。

明治11年 大学予備門(東大の前身)に進み、約2年間学ぶ。

明治13年(1880年)、札幌農学校に転じた。理由は家禄没収による経済難からか。札幌農学校は学費が安いことも理由。
「少年よ大志を抱け」で有名なクラークは去ったあとでしたが、札幌農学校を卒業しました。官立の大学です。一高にあたります東大予備門に入学しましたが、東京大学へは進まず、札幌農学校へ進学したのです。その当時には東京大学と札幌農学校しか大学はなかったのですが、授業料も寮費も国庫で給付してくれる制度があったので札幌農学校へ進んだのです。心のどこかに薩長藩閥の中央官庁での立身出世はできなかろうと思っていたかも知れません。
・反骨精神を養った。

明治17年(1884年)、17歳で札幌農学校を卒業
県立長野中学では植物科を担当し、長野県中学校教諭も務め、また長野県師範学校講師として地理科を教えた。だが、酒席での県令・木梨精一郎とのトラブルで翌年辞職し、上京して丸善に勤めた。郷土の先輩、父の門人の小柳津要人(おやいずかなめ)が丸善書店の支配人になっており、小柳津さんを頼って東京へ行きました。
丸善では和英辞書の出版を企画していましたので、英語のできる志賀は辞書の校正係になりました。

同年末、海軍兵学校の練習艦「筑波」に便乗してイギリスの巨文島占領の状況を探り、領土問題で緊張していた対馬周辺を視察した。

明治19年(1886年)、23歳で再び筑波に便乗して南太平洋の諸島(カロリン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイ諸島)を10ヶ月にわたって巡り、

翌年に出版した『南洋時事』で、列強の植民地化競争の状況を報じて警世した。この著により、東京地学協会の終身名誉会員に推された。

明治21年(1888年)4月、同人らと政教社を組織し、編集人として、機関誌『日本人』を創刊

「三河男児歌」は明治 22年 10月 1日のみかは新聞に掲載されたのが初出です。そうすると志賀 26歳の作です。
「汝見ずや段戸の山は六千尺。
絶巓天に参はりて終古碧なり。
又見ずや矢矧の水は三十里。
急湍石を噬みて矢より疾し」
とあります。東公園の碑文はそうではないですね。「汝見ずや段戸の山は五千尺。雲巓天に参はりて終古碧なり」とあります。
推敲を重ねたものが碑に刻まれています。

明治27年(1894年)8月からの日清戦争。松野鉄千代と結婚。31歳で『日本風景論』を出版した。
・漢詩文で科学的な紹介文で書かれた。
・江山洵美是吾郷
わがふるさとの山や川は洵(まこと)に美しい。

明治30年(1897年)、34歳で農商務省山林局長に就いたが、内閣を批判して懲戒免官にされた。

明治37年 41歳で日露戦争を仁川、京城、旅順で約半年観戦した。主に第三軍司令部において、外交顧問や通訳などに従事し、軍司令官の乃木希典の知遇を受けた。松本君平の東京政治学校の講師を務めた。
・乃木大将の漢詩を見る。
中日新聞1992年5月19日朝刊 16面

「乃木大将直筆の漢詩見つかる  岡崎出身地理学者 故志賀重昂氏に添削依頼」
爾霊山とは、旅順戦の203高地である。
 この漢詩について「坂の上の雲」では、乃木から渡された漢詩を読み志賀重昂が「これは神韻だ」と感動したくだりがある。

  爾霊山嶮豈難攀

  男子功名期克艱

  鉄血覆山々形名

  万人斉仰爾霊山


明治43年(1910年)、47歳で巡洋戦艦「生駒」に便乗し、世界を巡った。

明治44年(1911年)、48歳で早稲田大学教授とな、その死まで在職した。日本山岳会の名誉会員に推された。

大正元年(1912年)に、カリフォルニア州とハワイ諸島へ、

日本ラインの名は、大正2年(1913年)、50歳の重昂の命名

同3年(1914年)に、ハワイ諸島・カナダ・ワシントンD.C.・キューバ、メキシコを巡り、

同4年(1915年)、満州・蒙古に講演旅行をした。

大正6年(1917年)、54歳で英国王立地学協会の名誉会員になった。

大正11年(1922年)、南部アフリカ・南アメリカを巡回した。

大正12年(1923年)、60歳でインド・中近東・ヨーロッパ・北米を巡り、中東の石油事情とアラブ - イスラエル問題とに注目した。

恵那峡の名は、大正12年(1923年)、重昂の命名

昭和2(1927)年4月6日 63歳で死去
以上は事実を列挙しただけです。
・幼少にして漢詩文の素養を養う。父が儒学者だったこともあるが6歳で死んでいるから影響は少なかっただろう。

・札幌農学校で英語力を養う。これはアメリカ人のネイティブスピーカーから学んだことが大きい。

・明治18年に福沢諭吉の脱亜論が発表される。

・23歳で欧米列強の植民地政策の現場をリアルに見聞して『南洋時事』を著した。このことで国粋主義になるが排外主義ではない。世界に伍して行くには日本がしっかりしないと植民地にされるという危機意識である。

・この考えが熟し、日清戦争と同時に『日本風景論』を出版。名声が高まった。今から見ると性急だが当時は風雲急を告げる感じだっただろう。

・日清戦争に勝利すると支那人の留学生が増加する。明治37(1904)年、魯迅が国費留学生として来日。

・言文一致の国語が普及すると同時に漢詩文の文語文が衰退。文語文の持つ扇動的な文脈も衰える。

・明治29年にW・ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』がイギリスで出版される。

・前書きに「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」とある。

・日本へは宣教師として来たが布教活動よりも登山に熱心だったようだ。それにこの前書きを読むと社会観察もしっかりしている。日清戦争を見聞している。英国人から見ても日本人には付け入る隙がないと見えたのだろう。

・明治37年日露戦争勃発。従軍記者として観戦する。この時も漢詩文の素養が生きて乃木将軍の漢詩を添削する機会に遭遇。

・明治38年日本山岳会が創立される。

・明治44年に名誉会員となる。

・結局、子供の時に養った基礎的な教養ー漢詩文と英語ーが一生を支配する典型的なケースであろう。
・世界を股に掛けた行動力、言葉による表現力、逆境で培った反骨精神旺盛な明治人の典型を見る。