富士白く芒の枯れに浮かびたり 太田鴻村2016年05月29日

 本宮山の大鳥居の傍らにあった句碑の句である。本宮山の境内にも富士山遠望の場所が示されていたから見えるのであろう。句のなった芒の生える場所は特定できない。境内は杉の大木が林立するから必ずしも境内ではない。山頂か尾根状の見晴のきくところであろう。

俳人名鑑から転載すると(一部編集)

「太田鴻村 (おおた こうそん)

 明治36年(1903)~平成3年(1991)87歳。 愛知県(豊川市)生れ。 「林苑」主宰

 臼田亜浪に師事。「石楠」の最高幹部。大野林火,栗生純夫らと活躍した。「林苑」創刊主宰。*國學院大高等師範部出身

 句集:『穂の国』『潮騒』『群青』『隠岐の郭公』ほか

     天離(さか)る穂の国原や麦青み

     明日は咲く白き牡丹にあゆみよる

     蛸壺の荒縄さむく運ばれゆく

     西行のいのちの山ぞふきのたう             」

他に検索で収集した句

群鶏なだれ飛ぶ病葉のひるがへり   太田鴻村     穂国
羽抜鶏地にくくられて鳴くばかり     太田鴻村     穂国
山吹のうへ明るしとははの声       太田鴻村     穂国

穂の国とは、日本辞典の記載は
「宝飯  ほいぐん【愛知県】

[宝飯]
律令制以前は、東三河地方を「穂(ほ)国」と呼び→国郡制により三郡となり、その一つを「宝飫郡」と表記し「ほお」と称した→「飫」の字を誤記から「宝飯郡」と表記して「ほい」と称したという、又は佳字二字の詔勅からか「穂」に通じる「飯」を当てたか、「和名抄」は参河国「穂」郡と訓じ、国府が置かれた地。郡名は、古来の日本の美称・「瑞穂国」(稲穂がみずみずしく育った国)の「穂」か。「ホ(秀)国」(すぐれた国)の意からとする説もあるという。」
以上

 最初の句集「穂国」は東三河の旧称だった。つまり、太田鴻村は学校の教員であり、地元に密着した俳句を作っていたのだろう。一般に流布した句集が出た記憶はないので余り知られていない。

 ところで、昨日は宝川から本宮山に登った際、ひょっとすると、昔は「たからがわ」ではなく、「ほうかわ、ほのかわ」などと呼ばれていたんではないか、と思った。「宝=ほう」は「穂=ほ)の当て字である。今は豊川市になったが昔は宝飯郡一宮町といった。

 国見岩岩戸神社直下の水の一滴(ひとしずく)がまさに源流というわけで、農業を豊かにする信仰があったと思う。地元の宝円寺もほうえんじと読ませる。豊川の水は制御しがたいが、宝川程度なら利水もしやすい。

 実際、本宮山の南麓は豊川にむかって扇状地となり、水田が多い。人が住みやすく、耕作に適している。畑も多い。戦前は桑畑が多かった、とは宝円寺の和尚さんの話だ。蚕から繭になり、絹ができる。パラシュートの材料として輸出され、現金を稼いだ。宝円寺は松源院の末寺という。そこへ行くと衣川橋(きぬがわばし)を渡る。実はここを境に上流は衣川といい、下流は宝川という。衣(きぬ)は絹に通じる。今は繊維が豊富だが、昔の着るものは絹しかなかったのだろうか。

 水を恵んでくれる本宮山に信仰が生まれるのもむベなるかなである。その上、山容が優れているから名山の資格は十分に備えている。名山の山麓にある農山村はみな豊かに見える。農地はきれいに手入れされ、家並も大きく、貧しい感じがしない。お寺とか神社が有人で保たれるのは村の経済力のバロメーターと言える。山奥の廃田、廃寺、廃社が増えて行く時代だけに宝川の山麓は余計に豊かに見えた。しかし、今、農業だけで生計を維持する家はなく、どこかへ働きに出るとのこと。

 登山を堪能しただけでなく、句碑の俳句をひもとくことによって、信仰の歴史にまで思いを膨らませることができた。

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