萬緑を顧みるべし山毛欅峠 石田波郷2016年05月25日

週刊俳句から
ソース:http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/04/15.html
以下に琴線にふれる文章を転載。
 山毛欅峠(橅峠・782㍍)は秩父盆地と飯能市の境・正丸峠と関八州見晴台のほぼ中程にある。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="http://maps.gsi.go.jp/?hc=hifc#15/35.963453/139.201026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0"></iframe>
 自句自解等には、「昭和十八年五月、長男修大誕生直後、文学報告会職員のハイキングで奥武蔵に遊んだ。見はるかす四方の浅黄、萌黄、浅緑、深緑の怒涛のように起伏する爽大な風景に魂を奪われ即刻にこの句を為した。三月から月俸九十円の一書記であった」とある。
 終生、「俳句の韻文精神」、又、「豊饒なる自然と剛直なる生活表現」を唱え、「俳句は文学ではない」との俳句の本質を喝破した言葉も残している。
 山本健吉は、句集『風切』(昭和18年)で、抒情的新興俳句と訣別し、蕉風「猿蓑」を手本に古典の格と技法とを学び生活に即した人生諷詠としての俳句に開眼したと述べる。
以上

 昨日遅い昼飯を食べにデパ地下に行った。近くのご婦人2人の会話から
  泉への道遅れ行く安けさよ  石田波郷
の私の好きな俳句を空で詠んでいるのでつい耳を傾けてしまった。話の切れ目を見計らって、名乗り合うとすぐ応じてくれた。ある俳句結社のベテラン俳人であった。会話のレベルから10年以上、15年の年季が入っているはず、とにらんだ。それくらいのレベルなら会話が破綻することもないだろう。1人は30年、もう1人は12年という。2人は子弟関係にあった。しばし、波郷の俳句論に興じた。
 波郷は引用文にもあるとおり、秋桜子の弟子ながら、ホトトギス派を自称していた。すなわち、や、かな、けりの切れ字を古いものとして捨てた師匠に逆らい、切れ字の韻文精神を重視した。
  霜柱俳句は切れ字響きけり        石田波郷
  鯉こくの食いたき日なり普羅忌なり    石田波郷  
  楢檪霧呼んで普羅の忌なりけり      石田波郷
と普羅忌を詠んでいるのも切れ字に関係するからだ。前田普羅の俳句は格調の高い立て句で有名である。山岳俳句では死後数十年経った今もって後塵を拝することがない。
  駒ヶ岳凍てて巌を落としけり    前田普羅
 おそらく波郷は普羅を尊敬の念で見ていたに違いない。

 山本健吉は「俳句研究」の座談会で編集者として、石田波郷、加藤楸邨、中村草田男の3人をして人間探求派と持ち上げた。高浜虚子の主導した花鳥風月ではなく、人間を詠め、と言ったのだ。このくくり方は今考えるとおかしい。俳句は人間しか詠まないのだ。何を詠んでもその人間性が現れていれば良い。加藤楸邨は普羅の句を人間の血が通っていない、と批判した。楸邨こそ分かっていないのだった。
 ある俳句雑誌を読んでいたら、人間探求派の普及によって今は駄句(下らない俳句)が山積していると嘆いた。
 しかし、波郷は違った。普羅こそ本物と見ていた。その思いが普羅忌を詠むことにつながると想像する。
 さて、表題の俳句はべし、の断定が切れ字の役割をしている。人間なんて自然の一部じゃないかというのだ。この句は第二句集「風切」に収載されているから、”泉への・・・”の句よりも元気がある。句柄も大きく、力がみなぎる。「風切」は山本の引用文にある通り、俳句開眼の句集である。生への思いが強くでている療養俳句も良いが元気だったころの俳句をとくと味わいたい。