乙川優三郎『脊梁山脈』を読む2016年02月01日

新潮文庫。平成28年1月1日刊。乙川優三郎作は昭和28年生まれの直木賞作家(2002年受賞)。平成25(2013)年に単行本が刊行されている。

 登山者として、山旅の付録のような感じで、見聞を広め、本を読んで知識を深くするうちに、木地師には長く関心を持ってきた。

 本書は登頂とか、遭難とか、登山、山岳の歴史といった登山者向けの本ではない。以前に、伊那谷の木地師のことをググっていて、偶然ヒットした際、古書で取り寄せて一度は読んだ。木地師の関連のことを拾い読みしただけであった。文庫に入り、川本三郎の解説も読んでみて、また格別に感じたので購読。改めて文学作品として読む。

 この作品の斬新さは、主人公の矢田部信幸が当時、上海にあった日本の私立学校・東亜同文書院の学生だったということである。矢田部は17歳で昭和14年に入学。学業中に現地の上海で兵隊にとられた。昭和21年に復員兵として日本に帰還した。物語は佐世保港から始まる。車中で小椋康造に出会う。急病を看護してもらい、氏名、住所まで知ることになった。小椋とは豊橋で別れたが、故郷の福島へ帰ってからも小椋への恩義が忘れられない。実業家だった叔父から莫大な遺産が転がり込む。
 母校の東亜同文書院は敗戦で廃校となった。教授、学生ともども日本へ引き揚げた。学長だった本間喜一の奔走で豊橋に受け皿となる愛知大学を昭和21年に創立。矢田部も学生として復帰できないことはなかったと思うが、23歳にもなっていたし、いまさら学業に戻ることも気が進まない。独身で財産はあるし、家族を養うために働く必要もないからだ。GHQの占領下であったが、戦前の皇国史観から解放された自由を味わうかのように生き方を模索してゆく。
 そこで、小椋康造の故郷の長野県下伊那郡売木村を訪ねることにした。ところが、小椋康造には会えたが、当人ではなかった。ここが本作の伏線となり、種明かしは最後まで伏せられる。 
 WEBで国土地理院の地形図にアクセスして、主人公の足跡をたどると、作品中の地名も実在する。下り沢はくだっさ、と読む。霧山はきじやま、らしい。売木峠を目指す、というので、愛知県境の茶臼山の近くにある売木峠かと思ったら、別にあると知った。以後、地形図を開いたままにして読み進めた。
 木地師の小椋康造は果たしてどこに住んでいるのだろうか、との興味津々を維持させたまま、女との出会いと別れを織り交ぜながら展開してゆく。
 小椋康造への関心が木地師の根源への関心に発展した。さらに日本人はどこから来たか、という命題にまで迫る。日本書紀や古事記にまで言及するのだが、そこまではちょっと行き過ぎかなと思う。
 長谷川三千子『からごころー日本精神の逆説』ではないが、日本的なものを探究するとふっと消える。日本書紀には潤色が多いという。歌人の土屋文明は芭蕉の俳句を日本古来の文学と思うなよ、と書く。杜甫や李白の漢詩の影響があるからだろう。だからそこを承知で日本を理解したい。日本文化は外来のものを取り込みながら発展成熟したのだろう。多層文化ともいう。そこは前著に詳しい。
 乙川さんは主人公をして、木地師のルーツを、朝鮮半島からの渡来人や帰化人に求める。作品中には朝鮮人やハーフも登場する。今の時代だって、多文化共生じゃないか、と言いたいのだろうか。作品中に語らせる主人公のセリフから東亜同文書院生としたのも意図的である。コスモポリタンな人物を造形するためだったと思う。
 今も昔も戦乱の絶えないシナ大陸や朝鮮半島から逃れて日本に流れてきた技術者集団があったと思う。在留許可の仕事の研修で知ったのは、今でも中華料理の料理人は日本へ入国したがっているそうだ。政治経済の高度に安定した日本でなら食べて行ける。誰しも安定を望む。木地師の技術が発展し成熟したのは平和な日本ならではのことと思う。職人は荒れる祖国に見切りをつけて、ウデ一本で求められるままに世界を渡り歩く。
 作品に戻ろう。核心部や出てくる地名に付箋を付けていったら10枚にもなった。一一、WEB上の地形図で確認した。東北の温泉地や木地師の里を知ることができた。いずれ、登山の計画と組み合わせて、現地を歩いてみたい。
 核心部というのは菊の御紋の墓を見つけた場面だ。これは私も体験がある。奥三河の段戸山中で無名の山に登った。草深い平坦地に菊の御紋の墓があった。2年前も伊那谷の小川路峠への途次、木地師の墓を見た。墓守する定住の子孫もなく、供花すらなく、あはれな雰囲気が漂う。
 作品には出てこないが、東北の高杖高原なるスキー場から七ヶ岳にスキーで登った。その際、泊まった民宿が小椋姓だった。日本列島の一番膨らんだ東北南部から北部にかけて、まさに脊梁山脈は連なる。東北の山旅の参考になる好著だった。

立春2016年02月04日

立春や再三再四本探す

生わかめ湯通しすればさみどりに

生わかめ酢の物にして食べにけり

初めて食ぶデパートで買ふ恵方巻き

節分や大須を山車(だし)が練り歩く

新参と山の話の盛り上がる

恵方巻き騒動2016年02月07日

 ネットを見ていたら
http://blogos.com/article/159043/

 恵方巻きが大量廃棄というニュースが飛び込んで来た。
 今までは、子供時代からそんな習慣はなかったのでスルーしていた。今年は丸栄の地下食品街を通過したら大量に売られていたのを見て、つい衝動買いしてしまった。おばさんたち達も群がって買っていたし吊られた。
 他人事ながらこんなに大量に作って売れるんかしらと思ったが、案の定余った。価格も結構高い。最初から大量売れ残りを見込んで多分2倍から3倍くらいの値付けだろうか。半分売れたら元はとれる算段だろう。
 しかもまるかぶりと食べ方にまでお節介なことをいう。私はちゃんと普通に食べやすい量に切って食べた。

 この間、コンビニの前を通ったら、店員がパレットに巻きずしを入れて運んでいた。あれって、恵方巻きの残りものだったのだ。それにしても、最近、カレーの壱番屋のビーフカツの廃棄処分品を、産業廃棄物業者が、スーパーに売っていたことが発覚して社会問題になっている。恵方巻きもどう処分されるのだろう。

2月10日とは?2016年02月10日

 2月10日は何の記念日だったのか、ふと思う。7日は北方領土の日だった。そこで思い出したのは、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の死去した日だった。明治21(1888)年2月10日に亡くなった。晩年は大台ケ原の開拓に力を入れた。

 ググると、簿記の日もヒットした。
 以下は全国経理教育協会のHPからコピペした。

「簿記の日
簿記の原点である福沢諭吉の訳本 「帳合之法」の序文が1873年(明治6年)の2月10日に草されたことにちなみ、本協会が制定しました。
「帳合之法」とは
福澤諭吉により慶応義塾出版局から明治6年に『帳合之法 初編』2冊、翌年『帳合之法 二編』が2冊出版され、計4冊からなるわが国において最初の西洋式簿記書の訳本です。

「帳合之法」の原書は1871年アメリカ商業学校の先生ブライアントとスタラットンが書いた学校用『ブックキーピング』(Bryant and Stratton, Common School,Book-keeping) を翻訳したもので、まだ「簿記」という訳語がなく、わが国の商店などに用いられていた「帳合」の語を以てこれに当てたとされています。『帳合之法 初編』の2冊には単式簿記、『帳合之法 二編』の2冊には複式簿記が説明されており、福澤諭吉が日本に初めて複式簿記を紹介した書物です。」

 簿記は行政書士の資格で会計事務を専門とする私にとって、基本の基本になる知識と技術である。行政書士法には、伝統的な許認可のみならず、権利義務の書類作成とともに事実証明の書類作成、すなわち会計の職務も法定化された。本職であり、一生の仕事になった。
 名前は忘れたが、このような任意団体の通信教育で簿記を学び、協会内部の検定資格を得た。その後、日本商工会議所の簿記検定2級を取得、翌年には全国商業高校の簿記検定1級を取得した。理論だけから、実務の修業になった。もう40年以上も貸方借方の世界になじんだ。
 ペンとインクとソロバンで、仕訳帳から元帳に転記し、試算表を作成するが一発では合わない。合ったときは嬉しい。まことに、帳合の法とはよく言ったものだ。あれから、ペンと紙の帳簿、ソロバンはパソコンと会計ソフトを使った方式に変わった。試算表は簡単に作成できるようになった。消費税が加わり、大きな変化を遂げた。
 時代が変わっても変わらないものは、経営者の判断力の重要性だろう。正しい計算よりも正しい判断が必要なことは、いつの時代でも変わらざる真理であろう。

鎌倉を驚かしたる余寒あり 虚子2016年02月16日

 有名な高浜虚子の一句。箱庭的な鎌倉の地形にぴったりする。かつて2月に旅行した際は何十年ぶりかの大雪に見舞われたことがあった。これには驚いた。東名高速は通行止めになり、R1で帰名した。箱根も雪道で立ち往生する車が多かった。こちらは四輪駆動車だったのでスイスイ越えられた。

 雪ではなく雨というところが今年の冬のいやらしいところだ。少し前まで3月下旬から4月上旬の暖かさと言っていた。雨水が2週間早まった気がした。夜通しつけていたオイルヒーターも切った。石油ストーブも点火せずに済むほど緩んだが、ここへきて又暖房が欲しい。布団をかぶらずに寝れたのにとてもじゃないが毛布とかけ布団を真面目にかぶる。驚くほどじゃないが、まだ2月なのである。
 冬山に登ろうという人間がこの程度で寒いなんて言ってられない。週末に予定の登山口になるスキー場のHPを調べると積雪約60センチとはいえ、それは公称だろう。開店休業状態なのである。それでも山の上は相当な積雪があるだろう。心して登りたい。あっ、これも虚子の句にあった。
  登山する健脚なれど心せよ   虚子   
       *季語は登山で夏の季語

夢よりは先へさめたる湯婆哉 也有2016年02月19日

 湯婆はたんぽと読む。湯たんぽの意味。湯たんぽは湯湯婆と書く。冬の季語。句意は明瞭。夢から覚めるより湯たんぽが先に冷めるという。わざわざ「さめる」をひらがなにして、覚めると冷めるの掛け詞になっている。現代俳句は写生を強調する余り、こんな俳諧味がなくなってしまったといえる。
 
 長らく湯たんぽは使ったことがない。山梨県の七面山に登山した際、山上の敬神院の宿坊に泊まった。冬なので湯たんぽを使った。朝はその湯を洗顔に使った記憶がある。最近は見直されているとか。

 俳人横井也有の作。江戸時代は徳川宗春に仕えた尾張藩の重臣だった。病のため若くして現在の名古屋市中区上前津で隠居生活に入る。交差点の近くにその石碑が建っている。

 この調べでふと思ったことは、奥美濃にタンポという1等三角点の山の名前がある。意味が不明だったが、山頂部が見る場所からは湯婆の形に似ているからだろうか。

『元禄御畳奉行の日記』ー尾張藩士の見た浮世ーを読む2016年02月22日

 地下鉄車内で、N大のY教授を偶然見かけた。もう退職されたらしいが・・・。近世文学の学者である。ちょっと話したいことがあったがお弟子さんと同行中だったの遠慮した。何しろ、近世のことを生きていたかのように話される人である。古文献を読み込むだけでなく、よく知る人らとの交流もあってのことだろう。

 さて、今、江戸時代が面白いと思う。横井也有という俳人は有名であるが、全く無名の尾張藩士の朝日文左衛門は昭和のそれも戦後の昭和40年代になって突然知られることとなった。

 ウィキペディアには「朝日 重章(あさひ しげあき、延宝2年(1674年) - 享保3年9月14日(1718年10月7日))は、江戸時代の武士。幼名は甚之丞。のち、亀之助、文左衛門。家督を譲られた後は父の名前を嗣いで定右衛門。日記「鸚鵡籠中記」の著者である。」とある。
 表題は作家・神坂次郎の中公新書の書名であり、それを原作にしたコミックなのである。秋田文庫から上下巻でている。原作の『鸚鵡籠中記』は岩波文庫から出版されているが、在庫はないようだ。

 朝日文左衛門は下級武士の身分とされるが、中堅ともいわれる。奉行とは今の課長級なのか、上か下か。当時の尾張藩は将軍を出す御三家のひとつだから企業に例えれば財閥系企業である。そこの中堅職ならば下級ではないだろう。

 18歳で学問、武芸の修業を始める。いろいろ手を出すがものにならない。そんな文左衛門は18歳から45歳で死ぬまでの27年間に日記を付けていたというのだ。その題が『鸚鵡籠中記』である。しかも250年間秘蔵されてきた。当時、江戸の人口は35万人、名古屋は5万人という。世相を書き留め、尾張藩内の内緒にしておきたいスキャンダルまで網羅している。

 ウィキペディアで整理しておく。
 「書き始めは元禄4年6月13日(旧暦、1691年7月8日)、書き終わりは享保2年12月29日(旧暦、1718年1月30日)。期間26年8ヶ月、日数8,863、冊数37、字数200万に及ぶ膨大な日記で、元禄時代の下級武士の日常の記録として非常に貴重な資料である(一般に朝日重章は尾張藩の下級武士と表現され、またそういう文脈で紹介されることも多いが、役職的には中級ぐらいの武士であるとするほうが妥当という説もある)。
 朝日重章の死後、跡継ぎに娘しかいなかったため養子を立てたが、病弱であったためほどなく知行を返上、朝日家が断絶したため、経緯は不明ながら鸚鵡籠中記は尾張藩の藩庫に秘蔵された。その後、昭和40年代までの約250年にわたって公開されず、まぼろしの書として存在のみが知られていた。その内容は、本人の日々の記録や身辺雑記はもとより、当時の心中・盗難・殺人・姦通なども含む数々の事件や噂話なども記されている。
 鸚鵡籠中記の公開がはばかられた理由は、尾張藩への批判や醜聞が記載されていたためと考えられる。例えば4代藩主徳川吉通の大酒などの愚行を記述し、藩主と追従する重臣を批判している。またその生母本寿院の好色絶倫な荒淫ぶりをいくつも記載していたり、当時の生類憐愍の令について、尾張藩においてほとんど取り締まりをサボタージュしていた事実も記載されている。
 現在写本を徳川林政史研究所が所蔵している。現存する写本は、端正な筆跡で整然と記述されている点から、朝日文左衛門自身が書いた物ではなく、遺族が藩に提出した物を記録用に祐筆が清書した物ではないかとされる。」

 昭和40年になって、『名古屋叢書』続編の9~12巻に収録された。知る人ぞ知る秘本だった。
 
 漫画で読みやすい。というより、朝日文左衛門の人生がマンガチックにも思う。なぜなら、武士ならば武士道とか、儒教、朱子学、論語、本草学などの語彙があってもいいと思うが、一切出てこない。但し国学には関心を抱いた。大事な刀を抜き取られてもいる。今なら拳銃を盗まれた警察官に等しい。週刊新潮、週刊文春、週刊現代、週刊ポスト、他写真週刊誌の見出しになりそうな話が多い。
 元禄という時代はかくも規範が緩んでいたものらしい。週刊誌や新聞記事はプロの記者が書くが、朝日文左衛門は誰かに読ませる目的で書いたわけじゃない。だから虚飾、捏造もない。リアリズムは強い。

 最初の妻とは離縁、二人目も悪妻だった。出世はまあぼちぼち。酒好き、女好き、出張時の役得をしっかり享受する。自分本位の楽しみも犠牲にまではしなかった。人間は江戸時代も今も大して進歩していないじゃないかと、妙な安心感も持たせる読後感であった。

桃の咲くころや湯婆にわすれ水 也有2016年02月23日

 桃が咲くころといえば3月下旬あたり。春暖の候となり、寒い間はお世話になった湯婆(タンポ)も使わなくなった。お湯が冷めたまま放置してあることを思い出した。ありがたみが薄れ、水を抜くのを忘れたというのである。中七でやで切ってある。それが格調と独特のリズムを産む。

ああ!桃の花が咲いとる。
そういや、湯湯婆はもう仕舞はにゃー。
あれ、重たいがや。
水が入ったままだでよー。
あっ、抜くのを忘れとるがねー。

こんな生活の場面をさっと切り取って句にしたのだろう。江戸時代の武家の何でもないやりとりでもこうして句にされてみると現代でも理解できる。切れ字のある発句は立て句とも言った。待ち遠しい春の季節へのあいさつの心を込めている。桃の花よ!こんにちは、湯湯婆よさようなら、ってわけだ。
 このような句を取り合わせ、配合ともいい、現代俳句の山口誓子はニ物衝撃論を著して理論化した。

風花の舞う郡上山里2016年02月24日

浅春や風花の舞ふ山の里

如月のはやも雪消のスキー場

蕗の薹な採りそと言ふ山の主
(な~動詞~そは何々しないでくださいの意味)

春北風強し尾根路は雪硬し

春の泥沢の水にて洗ふなり

春日の頂上の雪に座す(母袋烏帽子岳)

山頂や飛騨一円は春曇り

洋タンスの修理2016年02月26日

 先だって、洋服のタンスの扉を開けると、何と、がばっと外れた。布団の上に落ちたから怪我はしなかった。蝶番が3か所とも破断していた。購入して20年は経つだろう。こんなものは一生ものであり、タンスと共に壊れることはないと思っていた。軽いショックを覚えた。
 蝶番の破断面をよく見ると、何と、鋳造品だった。鋳型に溶けた銑鉄を流し込んで成型する。形のいいデザインで製造できる。鉄板だと切断やプレスがあり工程が多い分コストがかかる。長年の開け閉めで耐久性がなくなったものらしい。鉄板だとこんな脆性破壊は起きにくい。
 早速、インターネットで、洋タンス 蝶番 ナンバーをぐぐると、すぐにヒットした。みなさん、破断に悩んでいるらしい。もう一つの扉も上中下のうち、中が破断していた。通販でも買えそうだが、近くのホームセンターに行くと、同じものが割安で売っている。結局、6個と穴を固めるセメダインを買った。
 自宅で、細目のプラスドライバーを用意して、壊れた蝶番を外す。楊子で穴を埋めてもいいが、セメダインの方が処理しやすい。全体が外れた右扉から手を付けた。全部外して、セメダインを穴に注入し、しばらく置く。新品をねじで止める。扉を右手で持ち上げてタンス本体の穴に左手でねじで止める。結構重いから中々に力が入る。一方の左は取り付けまま壊れた所から交換する。位置的には安定するから楽だ。全部取り付けた。開け閉めするが、重い音なのでまた外れそうだ。しばらく置くことにした。
 そして今日、開け閉めすると、取り付け直後よりは軽い音で開いた。やれやれ接着剤が効いてねじが固定されたようだ。これでタンスを新調せずに済んだ。生きているかどうかは分からないが、もう20年は使える。