円空と和歌2015年08月16日

 8/15はお千代保稲荷のお参りを終えてから、まだ帰名するには早いので、高賀山の麓の洞戸の円空記念館に出向いた。先週の8/8には円空の第二回歌集展が開催されてシンポもあったが山行でいけなかった。気になっていたシンポであるが文書には残されなかった。その代わり、円空和歌集という小冊子が発行された。(500円)15首ていどの和歌を見開き2ページで4首掲載し、簡単な解説を加えて、自筆原文の写真も併載された。
 閉館間際で、さっさと巡っただけであるが、私1人だけだった。原文は解読不能で、解説者が欲しいね、と言ったら、係員が気を利かして色々解説をしてくれた。とわいえ、専門家ではないので断片的な話に終始するが、それでも脳髄を刺激するヒントは得られた。来た甲斐があったというものである。

 ”立上る天の御空の神なるか高賀山の王かとそ念”

の作品の解釈は雨上がりの高賀山の風景の美しさを詠んだとされる解釈になっている。もっと踏み込んでブロッケン現象を見た感動を書きとめたのではないか、と言ったら、登山したことがある人はそういう解釈もできるね、と賛同いただいた。
ソースは草加の山の会のHP
http://www.soka-yamanokai.com/study/study09.html
から一部転載すると
(1823年8月5日に笠ヶ岳に登り、)「夕方山頂に着き、播隆上人と信者達は燈明を捧げ、焼香三拝していると太陽が西の空の雲に隠れようとした時、ブロッケン現象が現れ、これを「一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう。」と「加多賀岳再興記」には記してある。ブロッケン現象とは大きな丸い虹の様な光の輪が雲の中に出来、その中に登山者の影が映るのだが播隆上人や信者達は阿弥陀様が雲の中に出てくれたものと大変感激し、笠ガ岳を霊山として開く為より登山道を整備することとした。」
 播隆上人は和歌は残していない。笠ヶ岳は高山だからとも思ったが、ブロッケン山(ドイツ)は標高1141mだから高賀山(1224m)よりも低い。板取川と長良川に挟まれて山霧が発生しやすい。山頂にビバークして確かめたいものである。

 来館者からは円空の和歌の解釈本が欲しいとねだられるそうだ。私も欲しいと思う。

 今まで気が付かなかったのは仏像のみならず、人麻呂像も彫っていたことだった。しかも写真には愛知県で発見されたことが分かる。これは何を意味するのだろうか。円空の和歌修業はどうやら愛知県に居て、人麻呂の和歌を解釈できる高僧ではなかっただろうかという推測は成り立つ。
 
 愛知県の荒子観音は円空研究は荒子に始まり荒子で終わるというほど豊富なんだとか。このことからも円空のスポンサーは愛知県にいたことは想像できようか。毎月第二土曜日に開陳されるので一度は拝観したい。

 円空の和歌は古今和歌集(905年成立)に学んだ気がする。古今和歌集にも人麻呂は歌聖として崇められる立場にあった。人麻呂の塑像は歌聖として自らの和歌のお手本にしたと思われた。
 その根拠は万葉仮名で書かれた万葉集は平安中期以降は読めなくなっていた。951年から訓読みの作業が始まったとされる。いつ終わったのかは不明。

円空の和歌は
 ”わが母の命に代る袈裟なれや法のみかげは万代をへん” 
 ”世に伝ふ歓喜ぶ神は我なれや口より出る玉のかつかつ(注:数々)
柿本人麻呂の和歌は
 ”山の間ゆ出雲の子等は霧なれや吉野の山の嶺にたなびく”

とあって、技巧的に取り込まれたのだろう。

 土屋文明『萬葉集入門』によると、「人麿とその模倣者」の見出しで、
・細部まで完成されて未熟、未完成というべきところはない。
・人麿は広く模倣されている。
・人麿後の萬葉集は皆人麿の模倣と見てよい。
・人麿を越える人はいなかった。
・萬葉集は人麿において頂点に達し、人麿に終わっている。
以上を読むと歌聖といわれるはずだ。円空の時代でも既にそんな評価だったのである。

 仏像の制作をもって遍く旅した円空であるが、江戸時代には珍しくなかった。

 菅江真澄は愛知県豊橋市で生まれ30歳で東北の旅に出た。旅の途上で薬草を採集しながら地もとの医者に売って路銀を得ていた。また宿泊のお礼に絵図を書き残した。

 松浦武四郎は三重県松阪市の生まれ。北海道へ旅するが宿泊先では篆刻の技術が役立った。主に篆刻を彫って置いていった。アイヌの部落では薬草の知識が役立った。

 円空の場合は大衆への祈りの心を形に残したと言える。しかし和歌に傾注したのは何だったのだろうか。仏像だけでは表現しきれない繊細な心は言葉にして残すしかなかった。韻文と言う形で高貴な階級とも交流があったのではないか。解明が待たれる。