鑑賞 浅野梨郷の歌⑥ ― 2015年07月06日
『梨郷歌集』昭和4、5年の巻(昭和6年7月1日発行、私家版)は梨郷初の歌集だった。装丁は和綴じ、特製原稿用紙を袋とじという古風な体裁。原稿用紙1枚に6首を掲載。昭和4年196首、昭和5年295首を収録。
自叙
われいとけなくより和歌をこのみよく之をつくる。明治40年初秋の頃依田秋圃氏を訪れ萬葉集を示され、頓に佳境に入る。爾来得るところの作頗る多くして今となりて之を収集すること難し。茲に昭和4、5年の作を纏めて先づ一巻とす、他は之を知らるべし。
わが此の道に於ける、依田秋圃、伊藤左千夫両氏の導きによるもの頗る多し。常に感謝の念に堪へず。特に誌して記念とす。
昭和6年陽春
梨郷記
明治45年に東京外大を卒業後、鉄道院に就職、以来昭和5年まで勤めた。その後、ツーリストビューローに転じ、昭和7年まで勤務。昭和10年には名古屋市役所に勤務。昭和6年には秋圃らと「武都紀」を創刊。
昭和16年以降、戦時体制になり、短歌活動、人生においても波乱の時代に突入していった。その集大成が『豊旗雲』であった。
87歳の生涯の中でも最も平穏だったのはこの歌集に示されている。最も油ののった40歳代の歌である。昭和2年、鉄道院で仙台に異動し、住居も転居した。
東北本線の車窓からの歌
蔵王嶺は半はかくれ雲ありて雲もるゝ日にところどころ明かし
那須岳に雪ふりおきて雪のうへに噴火のけむり流れゐるなり
*但し、鉄道院での仕事は多忙を極めたようだ。
いとまありて野にも山にも思ふままありきたけれど望みすくなし
*ありきたけれど、はありく、で歩くの古語。暇があれば、ハイキングや登山も楽しみたいが仕事に追われてとても行けそうにないと嘆く。そう詠んではいるが仙台勤務の役得はきちんと享受している。
雪山を前にしてゆくすがしさに雪はくづるゝわがあしもとに
スキーしてのぼる雪山いただきに立てば雪又雪のつらなり
眼の下の雪のたひらに静まれるいでゆの町に歩む人見ゆ
*以上スキー3首の歌、とある。蔵王山と見られる。
日本におけるスキーは明治44年新潟県が発祥の地とされる。そこへ行ったことがある。
特に2首目の歌は「スキーして登る雪山」はゴンドラやリフトで登るわけではない。今の締め具からは想像できないが、当時はフィットフェルト式の締め具で、スキー板に皮製登山靴のようなスキー靴を固定した。かかとは自由に上がる。スキー板の裏にはシール(あざらしの皮)をはりつけ、滑り止めにした。そして、山頂に向かって雪の上をスキーを履いて登ったのである。そうすることで雪面を固める。これをラッセルといった。滑る際は、滑り止めのシールを剥がした。今の山スキーに近い。北海道の十勝岳温泉には国設スキー場があるがリフトなどの機械設備はなく、スキーを履いて登る、滑るのゲレンデであった。
昭和4年はニューヨーク大恐慌の有った年。昭和金融恐慌で日本の景気も悪かった。小津安二郎の「大学は出たけれど」の映画がヒット。昭和5年、早稲田大学を卒業した川崎吉蔵は就職先がない。それで、好きだった登山の分野で山岳雑誌『山と溪谷』の発刊を試みると創刊号は3刷という勢いで売れた。景気の悪化に反して勤労大衆は登山やスキーを楽しみ始めた時代であった。
当時は週休二日制ではなかった。せいぜい土曜半ドンであろう。マイカーもなかったから登山を楽しむのは厳しかっただろう。鉄道、バスを利用してスキーだけは時間を作れたのだろう。レジャーを興し、鉄道需要を喚起する狙いもあったのだろうか。
「豊旗雲」の歌では雪山に並々ならぬ愛着を見せたわけが分かったような気がする。もっと若いときに、暇があれば好きなだけ山に登っておきたかった。そんな回想もあるかに思える。
自叙
われいとけなくより和歌をこのみよく之をつくる。明治40年初秋の頃依田秋圃氏を訪れ萬葉集を示され、頓に佳境に入る。爾来得るところの作頗る多くして今となりて之を収集すること難し。茲に昭和4、5年の作を纏めて先づ一巻とす、他は之を知らるべし。
わが此の道に於ける、依田秋圃、伊藤左千夫両氏の導きによるもの頗る多し。常に感謝の念に堪へず。特に誌して記念とす。
昭和6年陽春
梨郷記
明治45年に東京外大を卒業後、鉄道院に就職、以来昭和5年まで勤めた。その後、ツーリストビューローに転じ、昭和7年まで勤務。昭和10年には名古屋市役所に勤務。昭和6年には秋圃らと「武都紀」を創刊。
昭和16年以降、戦時体制になり、短歌活動、人生においても波乱の時代に突入していった。その集大成が『豊旗雲』であった。
87歳の生涯の中でも最も平穏だったのはこの歌集に示されている。最も油ののった40歳代の歌である。昭和2年、鉄道院で仙台に異動し、住居も転居した。
東北本線の車窓からの歌
蔵王嶺は半はかくれ雲ありて雲もるゝ日にところどころ明かし
那須岳に雪ふりおきて雪のうへに噴火のけむり流れゐるなり
*但し、鉄道院での仕事は多忙を極めたようだ。
いとまありて野にも山にも思ふままありきたけれど望みすくなし
*ありきたけれど、はありく、で歩くの古語。暇があれば、ハイキングや登山も楽しみたいが仕事に追われてとても行けそうにないと嘆く。そう詠んではいるが仙台勤務の役得はきちんと享受している。
雪山を前にしてゆくすがしさに雪はくづるゝわがあしもとに
スキーしてのぼる雪山いただきに立てば雪又雪のつらなり
眼の下の雪のたひらに静まれるいでゆの町に歩む人見ゆ
*以上スキー3首の歌、とある。蔵王山と見られる。
日本におけるスキーは明治44年新潟県が発祥の地とされる。そこへ行ったことがある。
特に2首目の歌は「スキーして登る雪山」はゴンドラやリフトで登るわけではない。今の締め具からは想像できないが、当時はフィットフェルト式の締め具で、スキー板に皮製登山靴のようなスキー靴を固定した。かかとは自由に上がる。スキー板の裏にはシール(あざらしの皮)をはりつけ、滑り止めにした。そして、山頂に向かって雪の上をスキーを履いて登ったのである。そうすることで雪面を固める。これをラッセルといった。滑る際は、滑り止めのシールを剥がした。今の山スキーに近い。北海道の十勝岳温泉には国設スキー場があるがリフトなどの機械設備はなく、スキーを履いて登る、滑るのゲレンデであった。
昭和4年はニューヨーク大恐慌の有った年。昭和金融恐慌で日本の景気も悪かった。小津安二郎の「大学は出たけれど」の映画がヒット。昭和5年、早稲田大学を卒業した川崎吉蔵は就職先がない。それで、好きだった登山の分野で山岳雑誌『山と溪谷』の発刊を試みると創刊号は3刷という勢いで売れた。景気の悪化に反して勤労大衆は登山やスキーを楽しみ始めた時代であった。
当時は週休二日制ではなかった。せいぜい土曜半ドンであろう。マイカーもなかったから登山を楽しむのは厳しかっただろう。鉄道、バスを利用してスキーだけは時間を作れたのだろう。レジャーを興し、鉄道需要を喚起する狙いもあったのだろうか。
「豊旗雲」の歌では雪山に並々ならぬ愛着を見せたわけが分かったような気がする。もっと若いときに、暇があれば好きなだけ山に登っておきたかった。そんな回想もあるかに思える。
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