奥三河・段戸裏谷から出来山界隈を歩く2015年06月20日

 先々週の寧比曽岳に続き、今回は出来山周辺を歩いた。少し早めに出発したので段戸湖を9時20分に出発できた。雨雲が山に架かり、雲行きが怪しく、今にも降りそうである。何分ここは愛知の屋根と言われているのだから当然か。
 当初は椹尾分水林道を歩くも、前回と同じでは芸がないので、自然観察路を迂回することにした。「段戸モミ・ツガ植物群落保護林」というそうだ。地元ではきららの森ともいう。なるほど、樹齢200年から300年のツガ、モミ、ブナ、その他の雑木が群生している。ツガはカミキリムシにやられて生命力を失い、幹は虫食いだらけで立っている。倒木となって薬物処理されたものもあちこちで見た。樹高は約30mだが、その辺りが限界だろう。
 アップダウンを繰り返しながらまた五六橋の近くに下った。地形図の池が段戸湖で、すぐ破線路に入る道が自然観察路になっている。
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 地形図で、920とあるのは桶小屋第一支線林道の分岐。破線路と林道の合流地が五六橋の辺り。すぐに西川林道と分岐がある。実際には西川林道に直進してしまう。椹尾分水林道はもっと角度を以って右折する。すぐに東海自然歩道への分岐とトイレが建っている。先行のカップルが林道を行くので、出来山へ、と聞いたら、いいえ、寧比曽岳というので、それじゃあこの道は違うから戻ってさっきの分岐から山道に入るんですと案内。
 分水林道は文字通り、分水峠をゆるやかに越えた。これまでは矢作川水系、ここからは豊川水系になった。まず金沢栃洞林道を分ける。ここからは金沢栃洞林道になった。すぐに菜畑林道に合流した。次は牛渡橋になるが手前から牛渡林道が分岐する。栃洞林道と別れて牛渡林道を歩く。やや登りになる。前方が明るくなるとT字路になった。そこに何と単独行のハイカーが休んでいた。三河の人で林道歩きを楽しんでいるとか。以前に西川林道を直進してしまい西川に下ったことがあるとか。迷うことを楽しんで居られるようだ。
 出来山へは左折。不思議にもここからは舗装路になった。そして北から西へ回り込んで山頂の一角に着いた。そこはかつて電波塔があったらしい。地形図にはまだ抹消されていないが、今は緑の平地になった。平地まで入り込まず境を登って行くと木立の中に1等三角点が埋設されていた。何とも淋しい山頂であることか。見晴らしは全くない。私には30年ぶりの登頂であった。
 今来た道を戻って菜畑林道に入る。菜畑川に沿う林道を歩く。菜畑というのはあちこちにあるが、村はずれの畑の意味らしい。終点まで歩くと1087mの直下に行く。ここは江戸時代末期から明治初期の段戸御林の絵地図には「石仏」とある。ちなみに富士見峠は「笠松」とあった。1077mの無名の山から浅い谷が西に広がる。地形図には記載はないが、ここから分水林道が分かれるので右折する。すると裏谷から来る東海自然歩道を横切る。約3分ほどで終点になるが1077mへの踏み跡はなかった。
 左(北)へ行けば、寧比曽岳の方向になる。すぐに分水界を越えて再び矢作川水系に出る。そこは「桶小屋」といった。今日は右に行く。標高1030m辺りを巻くように歩くと、裏谷原生林の峠に着く。ここは昭文社の古いガイド地図には菜畑峠と出ていた。裏谷から菜畑へ越すからなるほどと思う。江戸時代末期から明治初期の段戸御林の絵図には「なごや嶽」なる山名がある。これは多分、1077mを指しているように思う。名古屋には山地平坦面の意味があり、大台ヶ原にもナゴヤ谷があり、名古屋岳もある。菜畑峠を緩やかに越えると再び原生林に入る。この谷は段戸湖から比高100mほどの和やかな谷である。この谷が突き上げるから「なごや嶽」と思うが・・・。
 ここもこのまま五六橋まで下らず、自然研究路に右折した。この道は地形図にはない。一旦稜線に上がって、下り、谷に下りたから多分、1015mの左を巻いて、椹尾分水林道に下りるルートだろう。分水峠の近くになる。これで段戸湖まで歩くだけだ。今日の林道歩きは終わった。下山後は西川へ行ってみた。
 出来山は絵地図でもそのままの漢字の山名であった。信玄の金鉱の歴史がある。栃洞はなく、鰻沢もない。西川という木地師の村はあった。明治時代中期に井山から木地師が入り、御料林を伐採し、木地製品をつくった。その後には桧の植林をしていったという。草刈をしていた西川の大蔵さんに聞くと、牛渡の地名は昔はツガの材木を板に挽いて牛で運んだという。その名残のようだ。爺さんが作った欅の大きなお盆も見せてもらった。
 出来山の金鉱跡も尋ねたが、御料林の伐採植林の時代に危険なので入り口は壊したという。道理で一つも見つからないわけだ。但し、それらしい跡はあった。坑道には膝くらいまで水が溜まっているそうだ。それだから沢でもないのに同じズリが敷き詰められ、かすかな流があるわけだ。
 西川から裏谷に登り返し、段戸川の県道33を下った。民地は多分、国有地に対する民有地のことだろうか。民地の近くには開拓橋の名前の橋があった。やはり。この周辺は御料林を払い下げを受けて開拓をしたものの標高が高くて生産性が悪かったと見える。今ならレタスのような高原野菜でも栽培できると思うが・・・。
 段戸御林から段戸御料林、そして国有林へ。山主の変遷とともに歩んできた山びとたち。筒井敏雄『山の波紋』(集英社)は段戸山を巡る無名の人々の群像劇である。ここだけは何か特別な雰囲気がただよう。また秋の紅葉期に来て見たい。冬の霧氷期もいいかも知れない。

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