初冬の富士を見る山行・箱根・金時山を歩く2014年12月08日

 行けそうで行けない関東周辺の山。箱根の山は観光気分が強くて、先送りして行くうちに、定年後の今になった。余り体力も要らず、ルートファインディングといった煩わしい技術も不要のハイキングの山である。名物の蕎麦と温泉を味わえれば、と未明の名古屋を発った。刈谷で1名を拾い、岡崎ICから東名に入る。三ケ日JCTから新東名に入ると後は富士山を見ながらのドライブとなった。
 静岡を過ぎて、富士川を渡る直前から雄大な富士山が目一杯に広がる。愛鷹連峰の南端を回って御殿場ICに向かう。この付近で東名と新東名が合流する。すぐに高速から降りた。降りてからも分かりやすく、乙女峠に行ける。トンネルをくぐって若干下ったところに金時神社がある。Pはすでに満車状態で、日本三百名山だけあってナンバーも全国区である。そこに車を置いて歩き始めた。道標には75分とあるから軽い気分で歩く。
 左にコンクリート製のマサカリをかたどったモチーフがある。公時神社(キントキジンジャ)である。山名の由来の元らしい。登山道は多くのハイカーが歩く。岩が露出していて歩きにくい。境内を過ぎると車道を横切り、傾斜も急になった。ぐんぐん高度を上げて行くと大きな割れ目のある岩に着いた。更に登ると植林の道から低潅木の道になった。明るくなり、周囲の山が見え出す。山腹をからむ道から尾根道と合流して更に傾斜が増す。足元は悪いが、富士山への期待がいや増す。木の根のからむ急な道を登り終えると狭い山上に茶屋が2軒もある山頂だった。
 1軒は元祖を名乗る金時娘の茶屋で『強力伝』のモデルになった小宮山正の娘・小宮山妙子さんの店。もう1軒は金太郎茶屋。小宮山妙子さんは昭和22年以来、14歳から茶屋を切り盛りしているとか。今年で67年になる。ということは81歳になる。飲み物を頼んだが息子さんが居ないということで出来なかった。後姿は見た。ここへ自力で登ってくるだけでも大変なことだ。
 さて、ここからの富士山は前山がなく裾野からコニーデ型に伸び上がる山容が素晴らしい。金時山も富士山のこの眺望あっての名山である。富士山の別称を芙蓉の峰というが、厳冬期はそう見えるかも知れない。眺望を堪能して下山した。
 同行者が是非にでも蕎麦を食いたいというので強羅の温泉街の一角でやっと探し当てて食べた。温泉の臭いの立ち込めるいかにも箱根の風情が漂うところだ。今回は明日、東京で行われる山岳会の年次晩餐会に参加するため神奈川県鎌倉市大船の宿に向かった。
<iframe width=500 height=400 frameborder=0 scrolling="no" marginheight=0 marginwidth=0 src="http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html?lat=35.281873&lon=138.938419&z=12&did=std&ifr=1&fsc=1&sca=0&zmc=0"></iframe>

東京散歩2014冬2014年12月09日

 12/6(土)は大船の宿を拠点に京浜東北線で上野駅まで乗って、東京・浅草界隈を歩いた。浅草は初見だったが、大衆の街らしさがあり又来てみたい。中国語も飛び交う国際色ある観光地になっている。
 浅草寺境内を説明するガイド板を読むと、徳川家康が保護したらしい。現代では政教分離というのに為政者はなぜ宗教に肩入れするのか。法治国家が成立するまでは人治だった。封建制であり、朱子学が取り入れられた。
 為政者は治世に全知全能を使う。鉄砲と刀の暴力だけでは治めきれない。大衆が現世ご利益を願う寺社仏閣を保護することで人心掌握(ガス抜き)を図ったのではないか。少なくとも日本では成功している。
 ヨーロッパでは宗教戦争というほどにいがみ合うから「宗教はアヘン」(マルクス)と言ったりする。GHQの制定した日本国憲法では政教分離になった。宗教が権力を掌握するのは危険であるとの考えだろう。「宗教は人間を飼いならす道具」と言ったのは司馬遼太郎だった。それは御免蒙る。
 雑踏を抜けて裏通りに入ると大衆劇場があった。まだこんな大衆芸能が生き残っているんだ。
 ごま油の匂いがぷーんとただようのは上質のごま油の天ぷららしい。「ちんや」というすき焼の店の前を通ったら並んでいた。大衆の街だが価格は大衆的ではない。
 浅草から地下鉄で日比谷公園に移動。松本楼でカレーを食いたかったが行列が長かったので断念。孫文ゆかりのレストランである。ここの経営者の先祖が映画で儲けた金を孫文に貢いで辛亥革命を援助した。孫文は毀誉褒貶の多い革命家であるが、梅屋庄吉の悪口は聞かない。
 当時は中国保全とか言われていた。革命を支援して、中華民国が成立。大国ロシアの南下政策を防ぎ、日本の安全と平和を願って、アジアの大国としてリーダーシップを握って欲しかった。清朝は倒れたが、中華民国は国の体をなさなかった。国共内戦を経て八路軍が蒋介石を台湾に追い出し中国大陸を制覇。1949年中華人民共和国が成立。日本にとって悪夢が実現したような結果になった。
 多くの日本人が命を犠牲にしてアジアからヨーロッパの大国を追い出し、植民地を解放したのに、共産主義国が隣国になってしまった。何のために血を流したのか。日本が期待した文明国中国の姿はなく、拡大に野心を燃やす、その厄介さは今に続く。
 ここから新橋駅まで歩く。山手線に乗って品川駅で同行の1人と別れた。もう一人とは山岳会の年次晩餐会のため新宿の京王プラザに行く。隣にある工学院大学は息子が出た大学らしい。立派な建物に圧倒される。
 年次晩餐会は全国から510名が出席。皇太子殿下をお迎えし盛大に厳粛に行われた。わずかな時間だが久々の交流の時間を楽しみ、電車で大船の宿に帰った。

初冬の富士を見る山行・箱根・神山を歩く2014年12月09日

 12/7(日)はゆっくり起きた。酒の勢いでよく眠れた。今日は予定では奥多摩の山だった。昨夜のニュースで降雪がありそうなので中止して、箱根の神山にした。往路と同じ道を引き返すように箱根に走った。箱根の近くに来てから、同行者の1人が途中で朝食を取るためにはいったガストにスマホを忘れたことに気づいた。連絡をとって宅配便で送り返してもらう交渉に手間取った。先を急ぎたいのに大きな時間のロスになった。
 登山口の箱根園に着いたのは11時過ぎになった。ロープウェイに乗車し、7分で駒ケ岳山頂に行ける。簡単すぎて何の感動も無い。駒ケ岳神社に型通りの参拝を済ませてから笹の山頂を下った。足元は霜柱が解けたせいで泥んこになっている。神山への最低鞍部に下ると良い道が交差している。そのまま神山へ岩のゴロゴロした登山道を登った。その際、硫黄臭が漂っていることに気づいた。ここも噴火の危険が迫っているような気がする。東北大震災をきっかけに各地の火山活動が活発化しておるようだ。
 神山へはあっけなく登頂できた。周囲は樹林越しに見えるだけで、富士山も最初は見えたがそのうちすっぽり雲に覆われた。山頂付近は霜柱ではなく降雪があったようだ。富士山が見えないと興趣はそがれる。再び往路を下った。交差点では右に坊ヶ沢を下った。笹が刈り払われて歩きやすい道である。
 下りきったところは県道だった。県道を歩いてロープウェイ駅まで戻った。予期しないアクシデントで時間切れになった。楽しみにしていた温泉もそばもカットして御殿場ICに向かった。


 箱根の山では硫黄臭があるとの情報がインターネットにアップされているので引用する。以下を読むと金時山から眺めた神山の山腹の噴煙は最近のものだと分かった。御嶽山だけではないのだ。人災にならねば良いが・・・。

2チャンネルから孫引き
2014年12月08日(月)

東日本大震災後、体に感じる地震の回数も減り、落ち着いたかに思えた日本列島。だが、長野での地震、御嶽山・阿蘇山の噴火など、大地の動きはつづいていた。そしていま、さらなる地殻変動が?。

■70年近くいて初めて見た

「なんだ、あれは……」

11月下旬、神奈川県と静岡県の県境にまたがる金時山でのことだ。ここは、富士山麓に連なる箱根山のすぐ近くに位置する。「金太郎」こと、「坂田の金時」伝説ゆかりの地でもある。

登山が趣味の本誌記者は、この山に100回以上登っている。麓の町から山道を歩くこと1時間半ほど。山頂付近にある山小屋の人々もすっかり顔なじみだ。

しかしこの日、見慣れたはずの風景を何気なく眺めていると、奇妙なものが目に飛び込んできたのだった。

「箱根山から、煙が……出てる?」

あいにくの天気で雲も低く垂れこめているが、丸で囲んだ部分、中腹の山並みの間から白い煙があがっている。

箱根の山は、言わずと知れた温泉観光地だ。地中に溜まったマグマの熱で地下水が温められ、温泉として噴き出している。

常に活発に噴気をあげている大涌谷は温泉たまごなども有名で、ピーク時には一日約2000人の観光客が詰めかけ、火山の生み出す特徴的な風景を楽しんでいるという。ちなみに大涌谷に向かうロープウェイの
年間乗客数は世界一であり、昨年度は220万人。ギネスブックにも載っている。

世界で一番、身近な火山とも言える箱根山。そこで噴気があがったと聞いても、「箱根ではいつでも噴気が出ているんじゃないの?」と思われるかもしれない。

しかし今回発見したのは、大涌谷から尾根ひとつ越えた、北西側の斜面だ。しかも、その噴気は大量で、離れた場所からもはっきり目視できるものだった。

この金時山頂上の山小屋で1947年、14歳のときから働いている「金時娘」こと、小見山妙子さん(81歳)に訊ねてみた。

「あの噴気のこと?あれは私も驚いてんのよ。噴気なんか出るようなところじゃないと思ってたから。最初は誰かゴミでも焼いてるのかと思ったの。はじめは細い煙みたいに見えたけど、日が経つにつれてだんだん
大きくなってきた」

(記事の続きや関連情報はリンク先で)
引用元:現代ビジネス http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41336

山岳会の忘年会2014年12月12日

   11/29~11/30 朝明山荘、能登ヶ峰

山のほか話すことなき忘年会

寄鍋や具沢山に食べきれず

山荘の薪ストーヴのほんわかと

展望もなき頂きや冬木立

冬枯れの鹿の楽園能登ヶ峰

  12/5 冬富士を見る箱根・金時山

冬富士や芙蓉の峰と思ふべし(金時山から)

麓なる枯野の沖に富士の起つ

霜柱ザックザックと踏みて行く

息白し金時山に登頂す

  12/6 年次晩餐会(東京)

冬空にスカイツリー見ゆ浅草寺

冬の日や雷門の人だかり

十二月異邦人数多浅草寺

短日や活き活きとする新宿は

樽酒の鏡開きや年忘れ

  12/7 冬富士を見る箱根・神山

鎌倉にスマホ忘れし十二月

神山に硫黄臭漂ふ冬木立

枯れきってヒメシャラの肌の露なり

神山にあられのごとき雪降れり

ひととき2014年12月13日

 穏やかな土曜日の朝。段ボールや古新聞を整理し、束ねて物置に入れに行く。

 給油ついでに灯油を購入しておく。@145円以上していた軽油が原油市場の暴落で@116円に下落していた。ロシア、アメリカ、産油国などの国際政治の駆け引きの結果、原油価格を下げる操作をしているとか。ロシアは経済が困難になっている。中国も駄目とあって大きな市場の崩壊がある気配である。

 溜まり気味の根菜類を調理しておく。山の帰りに山麓の農協で買った里芋の煮っ転がし、道の駅で買った素材100%のこんにゃくはざく切りにしてフライパンに少し油を引き、豚肉少しと唐辛子(あれば鷹のつめ)で水は加えず、砂糖と醤油を垂らして煮含める。等々を作り置きする。
 買い物は楽しい。それでも多忙になると冷蔵庫の隅に置かれて食べるのを忘れることがある。年末の忙しさを予想すると今日が雑用を片付ける最適な日と思った。

 午後はいよいよスタッドレスタイヤの交換作業だ。T字形のクロスレンチを購入して作業を楽にした。しかし、もう自力では限界か。15インチのタイヤ自体がアルミホイールにしても重く感じる。クロスレンチのお陰で時間は大幅に短縮した。以前は1時間、汗が出たが今回は40分ほどで済んだ。

後より初雪降れり夜の町 前田普羅2014年12月17日

 今夜、植田駅を出ると駅頭で白いものがちらつく。おや、雪か。腕に白いものが乗るがすぐ消える。余りに寒いのでマフラーをぎゅっと締めて家路に着く。天白川を渡るとやっぱり雪だ。12月半ばというのでえらく寒い。この寒気は雪だったのだ。マフラーをまく首の方から雪が降ってくる。ああ、そうだ、この風景は、前田普羅の表題の俳句の場面だ。
 前田普羅は富山市で昭和4年から「辛夷」を主宰。山岳俳句で知られた俳人だった。昭和29年8月7日没。今年は没後60年だった。

雪山に雪の降り居る夕べかな 前田普羅2014年12月22日

 普羅が富山へ赴任してからの作品。今年は何かしらないが北陸方面の雪が多い。つい最近富山市へ旅行に行ってきた人の話では山では降るものの街ではそれほどでもないとのことだった。咄嗟に浮かんだのがこの句だった。町にいても山を想う。日常的に親しんだ山の道も家も雪に埋もれてゆく。そういう想像を巡らせているのだろう。

鶏毟るべく冬川に出でにけり 飯田竜太2014年12月24日

 おとといからスーパーの店頭にはやたら鶏肉の特売が多かった。ももや丸焼きも多かったのはクリスマスの商戦のせいか。おかげで鶏がらの冷凍品ではなく、生の鶏がらも山積されていたので1つ買った。
 子供の頃から鶏肉は好きなので良く食う。年末になると、飼っている鶏を1羽潰して、晦日蕎麦の汁に使うのが恒例だった。祖父も生きていたから小学生の頃、父の言いつけで首をひねった鶏を冬の川原で羽を毟った。北風に吹かれて白い羽が水面に舞い上がった。
 表題の句は子供の頃の体験につながるのである。鶏の出しのきいた晦日蕎麦を腹いっぱい食べた。今は都会生活者なので望むべくもない。石油ストーブに鍋ごと載せて、醤油で調味すれば簡単に鶏がらのスープが出来あがる。もう年末ムードだから朝食代わりに蕎麦を食べた。

冬日和 12月の句2014年12月27日

御岳の見えて悲しき冬日和

くろぐろと尾張猿投の山眠る

三河なる段戸の山も眠るかな

遠山の名は知らねども冬の空

冬川に使者のごとき白い鳥

  東南の角なので11時に日陰になる
ベランダの日に束の間の布団干す

白菜のシチューを温め直しけり

煮凝りや店では食えぬ味したり

数多ある初校訂正十二月

忙中なれど執筆十二月

捨てるモノ数多有りける年用意

南九州一等三角点の山旅① 清見岳2014年12月30日

清見岳から池田湖を前に聳える開聞岳を眺める
12月29日午後7時半ごろ、ようやく旅立つ。丸の内の事務所に寄り道して雑用を済ませ、R19から熱田区を経由して伊勢湾岸道東海ICを目指す。高速道路に入れば後は外に出ることもなく鹿児島ICにつながっている。ところが、又も吹田JCTで中国道へ入り損ねて阪神高速へ入った。そのまま直進して、一旦高速料金を精算した。一般道を姫路まで走り播但連絡道から山陽道へ入ることができた。SAで聞くと良く間違えて問われますとのこと。いよいよナビを取り付ける必要がありそうだ。あれっ、と思っても高速で走り抜けねばならない。否応無く走らされるから正確な地理勘が要るのだ。今回も5000円以上と11000円以上で合算すると2000円以上余計に払った。
 さて、気を取り直して山陽道をひた走った。深夜を過ぎても全然眠い気がしないのは興奮しているからか。仮眠する気になったのは午前4時を過ぎてからだった。そこで約2時間仮眠し、起きると6時を回っている。まだ九州ではない。以前に山口県の山までは登山で来たからいよいよ新天地に入る。関門海峡を渡った。
        九州に渡る
 九州の山は30歳代に友人と2人で7泊8日で1日1山を登ったことがある。最後の開門岳で終了し、鹿児島中央駅から夜行で帰名した。それ以来である。
 SAで休憩と給油をする。北九州から鹿児島まではまだ350km以上ある。約4時間はかかる。年末とあって交通量はかなり多い。のんびりと九州路を走る。熊本県は沖積平野が多く見晴らしが良い。八代IC辺りから山間部を貫通するようになりトンネルが連続する。長い加久藤トンネルを抜けて、ようやく広々とした宮崎県のえびのJCTに着いたと思ったらすぐに山間部に入る。宮崎県をかすめるように鹿児島県に入った。それからも山間部は続いたが、鹿児島県の地図を眺めると広い平野は殆どないことに気づいた。午前11時、15時間かかって鹿児島ICを出てすぐまた有料道路を走らされたがR225へ導かれた。
        清見岳に登る
 まだ明るいし、天気も良い。暖かいので霞んでいるが1座はやれる。今日の目的の山は清見岳と決めた。指宿温泉を目指して走り、池田湖の案内で右折。池田湖が見えると地図に照らし合わせると見当がついた。
 清見岳はイッシーで知られる池田湖を囲む山の一つで402mの高さがある。登山口を見つけるのに右往左往したが、湖畔道路を走ると清見岳の道標を見て左折。284mの標高点の蕗の畑の前に車を置く。標はないので地形図から判断して古い林道を歩いて行く。すると小さな道標があり、尾根に木の根で作った階段を登る。尾根筋を辿ると山頂だった。車のデポ地から18分だった。
 ここからの開聞岳の眺めは絶品であった。前景に池田湖、背後に富士形の開聞岳の組み合わせは絵になる。開聞岳はどこから眺めても良い山だが清見岳からの眺めは素晴らしい。感動を分け合う仲間も居ないから独り占めするのが申し訳ない。
 景色を堪能した後は足元に注意しながら下った。低山とはいえ、山懐にある新永吉という山村には切立った断崖絶壁になっている。全山照葉樹林の冬でも緑の山は見通しが悪い。
        指宿温泉へドライブ
 無事に車まで戻れた。薩摩半島最南端の1等三角点踏査は終わった。このままホテルに行くには少し時間があるので有名な指宿温泉にドライブした。指宿と書いて「いぶすき」と読むのは松本清張の小説「拐帯行」に出てくるからだ。実際に行くともっと淋しい、鄙びた温泉街かと思っていたらかなりの規模の繁盛している様子なので引き返した。清張文学には暗さと淋しさが必要である。
 R226は右に波穏やかな鹿児島湾を眺める良い観光道路である。市街地に着くころはもう暗くなってしまった。ホテルへの道は鴨池港フェリー乗り場を目指す。簡単に辿れた。目前に見る建物は立派で山やさんの貧乏旅行には似合わない気がするが、検索では一番安い素泊まり4000円だった。中央駅に近いともっと高くなる。街の散策の予定はないのでこのホテルは当りだった。