新版『日本三百名山登山ガイド』全3巻発売2014年07月22日

 昨日、名古屋駅前の書店に寄って、山の本のコーナーを見ると表記の本が発売されていた。先に、JACの編集者から届くのは7月下旬と聞いていたが、書店へは優先的に配本されたらしい。
 取材の苦労の多い本だった。取材登山も、盛夏の中を往復した。標高2200mを超えていたが、気温は高く、大汗をかいた記憶がある。中でも写真撮影に困難を感じた。担当の奥茶臼山は長野県飯田市と大鹿村の界にある。今回は飯田市から登ったが、この山の全容を撮影する場所探しに伊那谷へ2回も足を運んだ。この山は全山針葉樹に覆われて撮影ポイントが殆どない。南アルプスの巨峰ならば縦走中でも撮影できるのであるが・・・。
 気温5℃、10月下旬から11月中旬の絶好期でも水蒸気が揚がり、チエックすると鮮明ではなかった。結局、となりの鬼面山に登った。少しでも朝早く登頂するため前夜発で地蔵峠まで行き、車中泊した。午前8時に山頂に立ったが、鬼面山は奥茶臼山の西に位置し、日の出が逆光となって黒っぽくなった。それでもシルエットははっきり撮影できてはいる。山岳写真は好条件が整うまで粘るわけにはいかない。妥協するしかない、と編者には書き送った。
 登山口から往復約8時間も要した。延々樹林の中で奥秩父のような錯覚を起こす。この山は何が売りなのか、なぜ三百名山なのか、よく理解できなかった。選定した人はよほど変人かへそ曲がりだろうに。今も完全に整備された登山道があるわけではない。伊那谷の一角からは特異な茶臼の山容が望めるというが取材中はついぞ、確認できないままになった。赤石岳や聖岳、光岳の赤石山脈直系の優秀な兄弟に比べて、背も低く、伐採跡が醜い山容。傍流でしかない、不遇な存在の奥茶臼山。私なら鬼面山を推したに違いない。
 しかし、俳優にも名脇役という賛辞の贈りかたがある。そう、奥茶臼山のキャッチフレーズは赤石岳を引き立てる名脇役とでもすれば良かったかな。
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子規・虚子を訪ねる伊予の旅2014年07月22日

       愛媛県松山市子規記念博物館へ(7/19から7/20)

 「何処へなりと遊べ夏山夏の川  子規」の垂れ幕があった。子規らしい大らかな俳句である。

 30歳代の頃、正月休みの四国周遊の山旅で皿ヶ嶺登山の帰途、松山市に遊んだ。例の温泉に入湯するためであった。投句箱に”大いなるぶなの枯れ木や皿ヶ嶺”を書いて投句したら佳作に選ばれて、愛媛人形を贈られた。嬉しい旅の記念になった。
 今回は定年後に始めた句会のメンバー4人を誘って往復1000kmを越すドライブになった。だから松山市は2回目の再訪となった。
 メンバーには松山市出身者もいて懐かしがった。高校までは松山市に住み、東京の音楽系大学に進むも、音楽家とはならず、楽器メーカーの社員となり、定年後の今は音楽指導の生活。感性を持て余すのか、俳句にも首を突っ込んだ由。というより、俳都に生まれたことが原因かも知れません。
 朝7時に出発。すぐ高速道路に入ると後は松山ICまで一般道に出ることはないはずだったが、トラベルはトラブルという縁語でも分かる通り、道中色々ありまして、子規記念博物館に着いたのは午後4時過ぎでした。宿に荷を預けて徒歩で子規記念博物館へ行く。午後6時まで開館というのが旅人には嬉しい。一通り子規の人生と活動を眺めた。生まれは漢学者の系統らしいが、東京へ出てからの人間関係の築き方が素晴らしい。特に新聞記者となってペンの力で情報発信できた環境にあったことが決定付けた。
 子規に名句らしい句はないじゃないか、との評価もある。彼は早世だったからそれは当たっている。ただ。彼の意を汲んだ弟子の活躍が大きかった。特に虚子が大きい。
    伊予の名山・高縄山へドライブ登山
 二日目は、早朝の神の湯に入湯。太鼓の音が響く。松山ならではの名物で、午前6時前というのに大勢の観光客が待っている。入湯料も最低410円から1000円を超えるものまでサービスにグレードがあった。一旦宿に戻って、商店街の街中をぶらついた。そこで新湯の存在も知った。椿の湯という。建物も新しい。3度目はここにも来よう。土産物の並ぶ商店街はまだシャッターが下りたままであった。ぶらぶら時間をつぶすうちに皆開店し始めた。
 商店街を抜けたところに古風な機関車の設置された道後温泉駅があった。カラクリ時計もあり観光スポットになっている。松山市の出身者は先ほどから盛んに携帯で高校時代の音楽仲間に電話しまくっていて、駅前に呼び出したようだ。名刺を渡された。その会話を聞くと伊予弁であろうか。
 懐かしむ伊予の言葉や夏の朝   拙作
を詠んだ。そして宿に戻って出発した。今日の目的地の高縄山にドライブ登山した。R317沿いの石手川の源流の山で、終始川沿いに走る。看板を見て左折。本格的な山岳路になり、羊腸の道を走ると、石ヶ峠に着いた。ここに置いて歩いてもいいが、まだいい道が延びていた。そのまま走るとすぐに高縄寺、更に登ると山頂直下に着いてしまった。石の板を敷いた歩道を登るというでもないほど短い。1等三角点が埋まる山頂だった。傍らのNTTの電波反射塔が景観を台無しにしているが、ここまで楽に登れたのはそのお陰でもある。鉄骨の櫓に登ると瀬戸内海の眺めが素晴らしいはずが、あいにく霧が流れる。この寺のどこにも俳句だらけであった。
    高浜虚子の生地を訪ねる
 車に戻って、さて帰名の途に着くと思いきや、松山市出身者が虚子の句碑へ案内するという。はて、そんな句碑は知らなかった。石ヶ峠から今度は右折。サイクリストが盛んに登ってきた。道なりに下ると旧北条市になる。R196を横切って、予讃線も渡ると旧のR196に出て右折。河野川の橋を渡ると高浜虚子の句碑と胸像があった。石も新しい。
 虚子は鎌倉市、芦屋市、小諸市に記念館があるのは知っているが、生家のある松山市では顕彰もされていない。大虚子にしては冷遇されている。それもまあ、子規の弟子であり、子規をあれだけ売り出している以上は二人も金は掛けられないだろう。質素であるが、虚子の老成した顔のイメージはよく出ている。
 その後、鹿島の港のみ立ち寄って、帰名となった。R196を経て山間の広い県道を登ると高縄山への案内があった。笹ヶ峠を越えると今治市に入る。道はころっと変わり、一車線になり、しばらく羊腸の道を下った。再びR317になり、R196に右折。今治湯の浦ICから高速に入る。そこから今度は徳島自動車道を経て淡路道に戻った。往きは淡路道から高松道へ図らずも入ったために意図的に迂回してみたのである。
 淡路は大きな島だった。本州へ帰ると長い渋滞に悩まされたが、何とか午後10過ぎ、無事帰名。有意義な旅を終えた。