近江・鈴鹿:ノタノ坂から旭山を歩く2012年12月09日

 12/8(土)は長島町に近い宿で山岳会の50周年記念の宴会をもった。昭和37(1962)年の設立は、三人寄れば山岳会といわれた乱立時代であった。雨後の筍のようにできた山岳会の一つである。職域の山岳会から一般に開放して、一時は100名を超える員数もあったというが、登山は3Kの時代になり、嫌われ、会員数を減らした。
 昭和50年代に入ると、女性だけの会、中高年御用達の山岳会まで現れて、多数の会員を集め、これもブームになった。登山の楽しみ方も多様化が進み、登山専用の旅行会社まで出来て、繁盛するようになった。
 平成の時代になると、登山の情報はネットから収集されるようになり、ガイドブックの価値も減った。山岳会の中で鍛えて習得する向きは岩登りなどバリエーションに特化するようになって専門化が進んだ。
 こうした中で相変わらず何でもありのオールラウンドを堅持している。50年の歴史の中で遭難死は1名だけで、安全に徹してきた。少子化の今、若い人が時間を確保しにくい状況にあるようだ。それでもデフレ不況とともに山でも若い人を見る機会は増えた。何かが変わりつつある。
 会員の息子さんや会社の部下らが山に来るようになった。要は登山の手ほどきの感覚で接することだろう。世代間ギャップはあるものの、スキルを伝達しながら、少しづつでも代替わりしてゆくことだろう。
 12/9(日)は有志7名で、ノタノ坂から岳まで縦走の予定で宿から出かけた。鈴鹿山脈の御池岳から派生する700mから800mのコブの連続する支稜である。中々来れそうで来れない山域である。
 9時過ぎ、黄和田の岩谷川の上部に車をデポした。約10KM走り、10時15分、ノタノ坂への入り口にあるPに車を停めて歩き出す。もの凄く寒い。しばらくは林道を歩き、道標にしたがって、橋を渡って、谷筋を登る。薄暗い植林内の道で余り歩かれていないようだ。ノタノ坂に着くと右へ歩き始める。
 鉄塔巡視路をひたすら辿る。所々の鉄塔の建つ場所の好展望に歓声をあげる。南にいくにつれて雪が多くなる。途中でちらちら降雪があった。風花という程度であるが、もう雪の季節である。積雪は約5cm程度はある。
 好展望の鉄塔広場からは周囲の北部から中部にかけての鈴鹿山脈の主峰が眺められて素敵だった。これが狙いでもあったがからみなさん喜んだ。特に御池岳のテーブルランドのスケールの大きさに呑み込まれる。近くの天狗堂も移動するにつれて微妙に形を変える。鈴鹿富士と名づけたいような端正な山容である。
 昨年、忘年山行で登った銚子岳から静ヶ岳も間近に見える。移動してゆくと竜ヶ岳も見えたし、釈迦ヶ岳、御在所岳、雨乞岳が見えた。今時から早春のじきだけに許される豪華な展望の山旅を満喫した。
 すっかり葉を落とした雑木林は雪で明るく気持ちの良い山道である。ヒキノ843.9Mは今回の最高点である。ギャップは少なく歩きやすいが、微地形のせいで、雪で行く手を見失うことが多くなった。登山者の付ける目印も正確ではなく、振り回される。旭山までもかなり迷走気味であった。
 おそらく山の神峠と見られる岳の一歩手前の巡視路180から政所に下る宮の谷に入り込んでしまった。(地形図の破線路)余りにも急な巡視路に変だなと思ったが、枝道がなく、また午後2時という微妙な時刻を考えてそのまま下山を強行した。登り返して岳を踏んで下山してもまだ2時間以上はかかると予想された。日没寸前である。
 宮の谷を下ると堰堤があり、すぐに舗装された林道に出た。3人の登山者が望遠鏡で何かを覗いていた。更に下ると政所に着いた。黄和田の岩谷川の上部に停めた車まで空身になって、徒歩で回収に行く。30分ほどかかった。皆を乗せてノタノ坂登山口まで走った。帰宅経路の関係でここで解散とした。冬を迎えた君が畑の山村を後にした。岳を踏めなかった悔しさが心残りであるが。
 そういえば、今年は9月の五竜岳も小屋で引き返し、11月の若丸山も頂上直下で引き返した。今年最後?の山行でおまけになった。

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