②石岡繁雄「遭難を防止するために」を読む2012年03月08日

 石岡先生が屏風岩を登攀したのは29歳昭和22(1947)年だった。45歳までに書かれたこの論文まで16年の歳月が流れている。この文だけでもこの間に積み上げられた登山に対する哲学的な態度が凝縮されている。遭難防止を切り口にした登山論といってもよいだろう。
 登山とは、登山者はどうあるべきか、という命題に頭脳を絞られた。遭難防止は決してハウツーだけで論じられるものではない。人間の問題ということに帰結している。
 後半の「遭難は前者の登山から後者の登山に、心構えも準備もなく漫然と移行するときに起きやすい」ということはよくあることだ。ハイキングや夏山では我慢できなくなった人が親睦的なクラブ、会を退会して、レベルの高い山岳会に移った途端に遭難死することがある。
 中級レベルだけでなく、漫然と登ると、レベルの高い人でもホワイトアウトや不意に雪崩にやられて死ぬことが何と多いことか。転落事故も多い。東海支部関係者だけ何人か顔が浮かぶ。登山技術以前に人間の問題なのだろう。
 一座一座について細心の注意を怠らないということ。登山の成功を忘れること(加藤幸彦『絶対に死なないー最強の登山家の生き方』講談社2005年)
石岡繁雄先生のHP
http://www.geocities.jp/shigeoishioka/index.html
 
  後半の小見出しは筆者の編集です。

 (ロ)遭難防止の問題点
 さて、登山界は、一般登山者の「軽率な遭難」を防止するように努力するわけであるが、たとえば、スリルが好きで山へ登るという者が遭難した場合、それは軽率な遭難になるのかならないのか、または、なだれを予見する方法というものは現在、不完全なものであるが、そのなだれにやられた場合、その遭難をやむをえないということになるのかなど、問題はいろいろとある。以下それらにふれてゆきたい。
 ①登山者が遭難した場合「軽率な遭難」かそうでないかの判定は、主観的なものでなくて客観的なものである。つまり遭難者なりその関係者が決めるのでなくて第三者(登山界)が決めることである。関係者が決めるにしてもそのつもりで判断しなくてはならない。
 次に万一遭難した場合、それが軽率な遭難にならないためには、登山者が登山に対して予め万全の注意を払っていたということが第三者によって判定されなくてはならない。万全の注意がなされたにもかかわらず遭難が起きたという場合には、その遭難は軽率な遭難ではない。
 ②万全の注意は果たして可能であるか、どうかという点を述べる。登山の内容から次の二つの場合に分類されると思う。
第一は、夏期、山小屋が散在する一般登山路を歩く場合とか(山小屋は、利用してもしなくてもよい。つまりテント持参でもよい)ゲレンデスキー(これを登山に含めることはどうかと思うが)の様に、考えられるあらゆる危険に対する予防措置がはっきりしているとみなしうる登山である。こういう登山では万全の登山は可能である。この登山を以下危険が小さい登山とよぶ。現状ではこの種類の登山での事故率は非常に小さい。(おそらく都会の危険率以下であろう)
第二は、岩登りとか積雪期登山のように、考えられる危険の内容が複雑多岐で、遭難防止対策が難しいものである。特に、岩場で墜落した場合の確保の技術(これさえ確立されれば、岩場での事故は僅少となろう)雪崩を予見する技術、吹雪の中で自己の位置を確認する技術等については、登山技術としてはむしろ未完成である、したがって、これらの危険に対しては、万全の注意というものは今後の人智の進歩を待たなければならないという状態にある。こういう登山では万全の注意は不可能である。この登山を以下危険の多い登山と呼ぶ。
      自分はこれから危険な領域に入るという自覚があるか?
要するに、危険が大きい登山は、危険が小さい登山に比較して、危険防止の対策が複雑であるという量的な差があるばかりでなく、未完成な技術を含むという質的な差を持っている。又危険が少ない登山をするものは、特別の心構えを必要としない。登山者というより、ハイカー、ワンダーホーゲラーといった呼び方がふさわしい。これに反し危険が大きい登山を試みるものは、後述の様な確固たる心構えが必要である。
 遭難は前者の登山から後者の登山に、心構えも準備もなく漫然と移行するときに起きやすい。
さて上述のごとく、登山には万全の注意が可能な登山と不可能な登山とがあるが、問題は後者にあるので後者について述べる。(なお今後単に登山と記せば、後者の登山を指すことにする) 
万全の注意が客観的に確立されていないような登山を試みようとするには、一体どうすればよいかという点であるが、現在でも、登山者が現在知られている注意を守りさえすれば、危険が小さい登山の場合の危険率にかなり近い危険率を維持することは可能であるので、登山者はそのような努力をしなくてはならない。この努力を以下最善の注意とよぶことにする。
登山界は危険が大きい登山の場合でも、登山者に万全の注意を一日も早く示しうるように、最善の注意の内容の改良に向かって懸命の努力をしなくてはならない。
③最善の注意に関して次の点を強調したい。人は何らかの動機とか目的をもって登山する。たとえば、そそり立つ岩壁を登ってみたいとか、美しい冬山の頂上に立ってみたいとか、初登攀の栄誉に憧れるとかいろいろとある。このとき山は、その人間に対して生命の脅威とか(岩場での墜落、なだれ等)肉体的な苦痛(寒気、風雪等による疼痛で、生命の危険につながる)を与える。これらのものを山の厳しさと呼べば、ある人はこの厳しさに耐えられずに目的を放棄する。しかしある人はその厳しさに抗して目的を達成しようとする。中にはそうした厳しさそのものに魅力を感じて、つまりスリルに魅力を感じて、その厳しさに立ち向かう。
登山に関心のない人は、そういう利益をともなわない厳しさを登山者がなぜ避けようとしないのかと不思議に思うが、若者には利害を離れた熱情、意欲というものがあってそれがその厳しさに対抗させるのである。これらの感情なくして、危険をともなう登山というものは成り立たない。
遭難防止に厄介なのはもちろんこの感情である。しかし、この感情は、いわば人類の文化を向上させる崇高な精神につながるものであって、これを単に抑えつけようとすることは、社会的にも好結果は生まれない。そうかといってこの感情を野放しにするのでは、貴重な人命の損失を防止することができない。
      登山者自身の客観的態度が必要ー感情のみ追わない
この感情を認め、しかも遭難防止を成立させるには、もう一つ別の要素が登山者に要求されることになる。それは登山の動機、目的はどうあろうとも、危険から身を守るための科学的態度に身をおいた最善の注意を、登山の計画、実行すべてを通じて瞬時といえども怠らないという理性である。
つまり人間をして危険な登山をさせるのは、山の厳しさに魅力を感ずる焔のような感情であるが、そういう人間を遭難から救うのは氷のような理性である。
岩壁を登るには、わきおこるファイトが必要であるが、登攀に際しては、そのファイトを心の奥底にじっと秘めて、自らを守るためにあくまで科学的な態度、特に自らの能力を謙虚に見つめる理性が必要である。
           真の登山者像とは
山の厳しさに魅力を感ずれば感ずるほど、危険防止のための最善の注意に全知全能をかたむけるというのが真の登山者の姿である。登山というスポーツに、優れた社会的位置づえを与えるのも、与えないのも要はこの一点にかかっていると思う。