『遙かなる未踏の尾根MAKALU1970』を購入2012年02月05日

 昭和47(1972)年。茗渓堂。日本山岳会東海支部マカルー学術遠征隊の報告書の体裁を取っている。ざっと目を通した程度だが、壮大な人間ドラマを読む思いがする。
 組織のページは出演者さながらに錚々たる隊員が並ぶ。
 協力には名古屋大学環境医学研究所(御手洗教室)、名古屋大学理学部水質科学研究施設(樋口教室)
 後援は愛知県、名古屋市、NHK、,朝日新聞
 目的として
 1)登山
 ネパール・ヒマラヤ・マカルー峰(8481m)の新ルート、東南稜からの登頂
 2)高所医学
 高所における生体の適応と順化の研究。現地研究と日本における低圧実験。
 3)地球科学
 ネパール・ヒマラヤの氷河及び地質の総合的研究。ネパール東部地域の空中写真撮影。
 4)血清科学
 マカルー周辺、バルン谷一帯の高地住民の血清によるEBウイルス抗体価の測定。
 ヒマラヤ委員会
 委員長に熊沢正夫、事務局長に原真、伊藤洋平、村木潤一郎(筆者注:元日本山岳会会長)、沖允人(筆者注:中京山岳会、名城大学、足利工業大学教授を歴任)、贄田統亜、渡辺興亜、田中元、松浦正司、尾上昇(筆者注:現在、日本山岳会会長を務める)
 ほか学術研究担当者に御手洗玄洋(名古屋大学環境医学研究所・教授)、樋口敬二(名古屋大学理学部水質科学研究施設・教授)、木崎甲子郎(北海道大学理学部・助教授)、伊藤洋平(愛知県がんセンター・ウイルス部長)
隊の構成
 1969年の調査隊は松浦正司、尾崎祐一、生田浩、小川務(24歳)、山田勇の5名。(筆者注:小川務は現在東海支部長を務める。)
 1970年の本隊は簡略ながら
 ・総指揮の熊沢正夫(65歳)はJACを退会していたのに再入会し、支部長に駆り出されて、総指揮の任に当たった。
 ・隊長の伊藤洋平(46歳)は京大の医学生のときに「岳人」を創刊した。昭和22年当時のことだ。その後、中部日本新聞社に経営を移管。愛知県癌センターウイルス部の初代部長。62歳で死去。
 ・原真(33歳)は2009年に新聞各紙で死去が伝えられた。マカルー遠征隊現地隊長だった。登山家の中では多数の出版活動の実績がある。辛口の登山界批評で知られる。
 ・登攀隊長 市川章弘、隊員 田中元、尾崎祐一、松浦正司、尾上昇(26歳)、川口洋之助、後藤敏宏、吉原正勝、長谷川勝、橋本篤孝、越山将男、生田浩、浅見正夫、中世古直子(32歳)、芦谷洋子、白簱史郎、谷久光とある。(筆者注:生田浩は死去、谷久光は朝日新聞記者、原真死去後、支部報に追悼文を寄稿した。白簱史郎は高名な写真家、原真を語る会に出席し、追悼を述べている。http://masaok15.exblog.jp/9834377/
 ほかに地球科学隊1970秋に派遣された。

 日本山岳会東海支部は1961年に設立された。色々曲折を経て、その8年後にこの壮大な遠征隊を成功させた。立役者は原真に異論はないはずだが、現在も支部を継承する古手会員らは必ずしも、全面的に功績を認めない。
 本書の後半の座談会の項目に”東海支部の将来”の中で東海支部解散論が話題になっている。この点が今もわだかまりの解けない問題を孕んだ発言と見られる。前のページでは組織論が交わされている。
 原真は機能的組織論者だったといえる。機能体とは、外的な目的を達成することを目的とした組織の意味。(堺屋太一『組織の盛衰』(PHP文庫)から)
 歴史の人物に例えれば織田信長、武田信玄辺りが浮かぶ。信玄は無能な部下を持たなかった。有能な人間のみを部下に重用したといわれる。戦時においてはそれがリーダーの当然の資質だったと思われる。原真はマカルー遠征成功で天分を存分に発揮し、一仕事終えた天才だったのだろう。
 一般的には共同体組織でいいと思う。登山が趣味の個人の集まりの会で満足追及を目的とした組織。現会長の尾上昇は以前、ネイチャークラブを提唱している。
 原真が嫌ったのは機能体組織たる東海支部の共同体化ではなかったか。支部だけでなく、著作の中で日本山岳会解散論も提言していた。医者にありがちな狭い料簡といえばいえる。
 しかし、沢登りだけは良いと称賛していた文もあった。特に奥美濃の銚子洞へ友人に連れられて行かれたようだ。記憶違いでなければ。単に他の登山のジャンルの楽しさを知らなかっただけだろう。
 話せば面白い人物だったと思う。筆者の年長の友人にも藪山好きの医者がいた。その人と交流して思ったのは医者は意外に世間が狭いと。異質な(いい加減に)人生を生きる人間と集まって酒を飲むことを楽しみにしていた。そして大の本好きだった。