『遙かなる未踏の尾根MAKALU1970』を購入2012年02月05日

 昭和47(1972)年。茗渓堂。日本山岳会東海支部マカルー学術遠征隊の報告書の体裁を取っている。ざっと目を通した程度だが、壮大な人間ドラマを読む思いがする。
 組織のページは出演者さながらに錚々たる隊員が並ぶ。
 協力には名古屋大学環境医学研究所(御手洗教室)、名古屋大学理学部水質科学研究施設(樋口教室)
 後援は愛知県、名古屋市、NHK、,朝日新聞
 目的として
 1)登山
 ネパール・ヒマラヤ・マカルー峰(8481m)の新ルート、東南稜からの登頂
 2)高所医学
 高所における生体の適応と順化の研究。現地研究と日本における低圧実験。
 3)地球科学
 ネパール・ヒマラヤの氷河及び地質の総合的研究。ネパール東部地域の空中写真撮影。
 4)血清科学
 マカルー周辺、バルン谷一帯の高地住民の血清によるEBウイルス抗体価の測定。
 ヒマラヤ委員会
 委員長に熊沢正夫、事務局長に原真、伊藤洋平、村木潤一郎(筆者注:元日本山岳会会長)、沖允人(筆者注:中京山岳会、名城大学、足利工業大学教授を歴任)、贄田統亜、渡辺興亜、田中元、松浦正司、尾上昇(筆者注:現在、日本山岳会会長を務める)
 ほか学術研究担当者に御手洗玄洋(名古屋大学環境医学研究所・教授)、樋口敬二(名古屋大学理学部水質科学研究施設・教授)、木崎甲子郎(北海道大学理学部・助教授)、伊藤洋平(愛知県がんセンター・ウイルス部長)
隊の構成
 1969年の調査隊は松浦正司、尾崎祐一、生田浩、小川務(24歳)、山田勇の5名。(筆者注:小川務は現在東海支部長を務める。)
 1970年の本隊は簡略ながら
 ・総指揮の熊沢正夫(65歳)はJACを退会していたのに再入会し、支部長に駆り出されて、総指揮の任に当たった。
 ・隊長の伊藤洋平(46歳)は京大の医学生のときに「岳人」を創刊した。昭和22年当時のことだ。その後、中部日本新聞社に経営を移管。愛知県癌センターウイルス部の初代部長。62歳で死去。
 ・原真(33歳)は2009年に新聞各紙で死去が伝えられた。マカルー遠征隊現地隊長だった。登山家の中では多数の出版活動の実績がある。辛口の登山界批評で知られる。
 ・登攀隊長 市川章弘、隊員 田中元、尾崎祐一、松浦正司、尾上昇(26歳)、川口洋之助、後藤敏宏、吉原正勝、長谷川勝、橋本篤孝、越山将男、生田浩、浅見正夫、中世古直子(32歳)、芦谷洋子、白簱史郎、谷久光とある。(筆者注:生田浩は死去、谷久光は朝日新聞記者、原真死去後、支部報に追悼文を寄稿した。白簱史郎は高名な写真家、原真を語る会に出席し、追悼を述べている。http://masaok15.exblog.jp/9834377/
 ほかに地球科学隊1970秋に派遣された。

 日本山岳会東海支部は1961年に設立された。色々曲折を経て、その8年後にこの壮大な遠征隊を成功させた。立役者は原真に異論はないはずだが、現在も支部を継承する古手会員らは必ずしも、全面的に功績を認めない。
 本書の後半の座談会の項目に”東海支部の将来”の中で東海支部解散論が話題になっている。この点が今もわだかまりの解けない問題を孕んだ発言と見られる。前のページでは組織論が交わされている。
 原真は機能的組織論者だったといえる。機能体とは、外的な目的を達成することを目的とした組織の意味。(堺屋太一『組織の盛衰』(PHP文庫)から)
 歴史の人物に例えれば織田信長、武田信玄辺りが浮かぶ。信玄は無能な部下を持たなかった。有能な人間のみを部下に重用したといわれる。戦時においてはそれがリーダーの当然の資質だったと思われる。原真はマカルー遠征成功で天分を存分に発揮し、一仕事終えた天才だったのだろう。
 一般的には共同体組織でいいと思う。登山が趣味の個人の集まりの会で満足追及を目的とした組織。現会長の尾上昇は以前、ネイチャークラブを提唱している。
 原真が嫌ったのは機能体組織たる東海支部の共同体化ではなかったか。支部だけでなく、著作の中で日本山岳会解散論も提言していた。医者にありがちな狭い料簡といえばいえる。
 しかし、沢登りだけは良いと称賛していた文もあった。特に奥美濃の銚子洞へ友人に連れられて行かれたようだ。記憶違いでなければ。単に他の登山のジャンルの楽しさを知らなかっただけだろう。
 話せば面白い人物だったと思う。筆者の年長の友人にも藪山好きの医者がいた。その人と交流して思ったのは医者は意外に世間が狭いと。異質な(いい加減に)人生を生きる人間と集まって酒を飲むことを楽しみにしていた。そして大の本好きだった。

登山家・芳野満彦さん死去2012年02月07日

 朝日新聞朝刊が芳野満彦さんの死去を報じた。享年80歳。登山家としては永らえた方だと思う。記事によると新田次郎の『栄光の岩壁』のモデルというがそれよりも名著『山靴の音』の方が親しみがある。この中には東海地方のアルピニストの名前が沢山出てくる。他界された人もいるが存命の人もいて、このニュースに感慨を覚えているだろう。

風雪の大日ヶ岳スキー登山2012年02月08日

 2/7夜、山岳会の定例会後出発する。高速は高鷲ICで降りて道の駅大日岳のP内でテント仮眠。翌朝6時起きで高鷲スノーパークのゲレンデに行くと平日でも関西NOの車が駐車してあった。
 8時運転開始と同時に、ゴンドラで最上地点1574m付近まで機械力で登ると大日ヶ岳1709mまではそれほど比高はない。粉雪混じりの風が強いのでゲレンデで1回試験的に滑る。
 リフトで登り返すと9時半になった。スキーシールを忘れたので紐で代用する。この作業はW君の得意とするところ。登ってみると中々行ける。傾斜角を鋭角にして行けば何とかなりそうだ。
 天気は良くなりそうにもないので風雪をついて登ることになった。厳しい寒気は指先をマヒさせる。インナー手袋もはいて二重に防寒する。要所にはW君が赤い布を結ぶ。こうしておけばよほどの風雪でもない限り、帰ってこれる。管理区域の境界と見られるところにはゲレンデ外への注意喚起の看板が2枚掲示してあった。「スキー場では救助活動はできません」とのこと。
 もちろん冬山登山の領域なので当然だが、ゲレンデの開発もやり過ぎる傾向にある。さて手前のピークに立って一旦は下る。6時の朝食で空腹なので雪を掘って風除けにして軽くパンなど食べてエネルギーを補給した。再び、風雪の中を登っていくとさっきのピークに2人の人影があったが引き返したようだ。
 やや急な斜面を凌ぐともう山頂はすぐだった。1時間のところ、2時間もかかった。石標は少し頭を出しているから約1m30cmはあろうか。シールを剥がしてすぐに下山だ。アイスバーンの上にうっすら粉雪が乗っている最高の条件である。
 あっというまに鞍部に達し、階段登行で登り返す。手前のピークからはゲレンデへいくらもない。ブナ林の中を滑走して行くと音楽が聞こえてきた。
 ゲレンデの一角の建物で一休みして、センターハウスまで一気にゲレンデを降った。今日はこれでお終いにして、湯の平温泉に寄った。良い湯だった。

雪の五箇山から飛騨路ドライブ2012年02月13日

 2/11から2/12にかけて五箇山の大滝山スキー登山を目指したが降雪に断念した。
 2/11、6時W君宅を出発。東海北陸道を走る。各務原で渋滞につかまる。美濃ICで降りて、R156を走り、高速の状況を見て郡上八幡ICから入りなおす。渋滞をスルーできてスイスイ走れる。
 五箇山ICで降りて、まずは登山口の猪谷を目指した。地形図では大滝山の長大な尾根が猪谷へと下っている。小原橋を過ぎて、皆葎(みなむくら)という珍名しい地名のムラを右折。庄川の橋を渡ったところが猪谷で、三十戸もあろうか。大滝山の北東尾根の斜面に点在する山村である。平地は少しも無い。
 天気予報では曇りのち晴れであったが朝からよく晴れて雪の散乱反射で眩しい。そんな中で屋根の雪下ろしをしている光景が多かった。奥までいくと嫗が屋根に上り、長靴姿で雪下ろしをしているのには驚いた。少し会釈した。
 雪国に生まれ、雪遊びをして、雪の中で育った。雪と闘いながらもたくましく生きる。雪のない季節は冬の準備のために費やす。そんな人々が今も住む。
 奥まで行って引き返し、登る尾根の入り口を偵察した。見当はついたが今度はビバークの場所選定に迷った。生活圏は避けたい。さりとて、平地がないので道の駅にした。暖房トイレもあるし、軒先もある。
 ここまで来たからにはと、上梨の山崎富美男氏を訪ねた。8年前に胃を患ったが今は治癒している。観光客が減って土産物屋の店も仕舞った。五箇山の世界遺産指定は追い風にはならなかったようだ。それでもかえって山崎さんの存在感は高まっているようでもある。ここへ来るのは人形山への登山客と自然を愛する人らだけであるから山小屋の建設維持をしてインフラ整備に力を入れる。登山道のない笈ヶ岳には10回は登ったという。今も山崎さんを慕ってくるようだ。
 長話を打ち切ってR156を戻る。まだ時間が有るのでタカンボー山1120mのタカンボースキー場でゲレンデスキーをした。ブナ林を配置していて中々いい感じだ。リフト最上部からは対岸の大滝山が反射板を置いてよく見える。その奥が人形山、更に奥に突起が見えるのは籾糠山、隣が猿ヶ馬場山だ。目を転じると石川/富山県境の猿ヶ山も見える。赤尾からスキー向きの長い尾根を垂らしている。県境稜線もスキーを走らせたいなだらかな感じである。
 営業時間が来て、打ち切った。スキー後はくろば温泉に行く。熱めのいいお湯だった。道の駅に戻って車の隣にテントを張る。W君の用意した天津鍋(点心)を賞味した。
 2/12、2時半に隣の車が出発していった。外に出るとちらちら雪が舞っている。今日は雪か。そのうちに除雪機も出動していった。われわれも4時には起きた。鍋の残り汁に白菜、うどんを入れて朝食をとる。その間に今日の行動を相談。登山は中止した。昨日の地元の人の話ではこの時期に登る人は居ない、お前たち雪と心中するなよ、と忠告してくれたこともある。
 テントを撤収して、車に積み込む。周りは20センチの積雪だ。早朝からでもこれだけ積もる。路上にも真っ白に積もった。
 目指すは八尾町にした。W君の友人が関東からふるさとの八尾の家に帰るから会いたいという希望と八尾にあるという樹齢200年の辛夷の大樹を見たい希望が一致した。
 富山駅で10時半に落ち合い、八尾の父親宅に同行した。親はホームに居て、留守宅とのこと。堆く積もった雪で軒先が曲がっている。住まない家は傷みやすいとはいうが悲しい。
 W君との話を又聞きすると「帰らんちゃよか」の歌の歌詞ではないが
 ♪心配せんでよか心配せんでよか
   親のためにお前の生き方かえんでよか
   どうせおれたちゃ先に逝くとやけん
   おまえの思うたとおりに生きたらよか♪   
http://www.youtube.com/watch?v=ZNmZmHhSUAU&feature=related
 多額の学費を出して大学を出させたものの関東圏に居ついてしまい、帰らなければいずれ廃屋になる。売却すれば故郷の拠点は墓だけになる。叔父や叔母も死んでいけば、ああ、まるで歌に聞く「おさらば故郷さん」だ。
 http://www.youtube.com/watch?v=_89nfnMixc0
 高齢の父親に幸せあれと祈り、W君の友人と別れた。
 もう一つの目的だった辛夷の大樹は場所がうろ覚えで探せなかった。帰宅後、角間の八幡社と知ってがっくり。若宮八幡宮を訪ねておいてはあるわけがない。
 R41を忠実に走って高山に向かう。車窓からは黒部五郎岳、薬師岳、御岳、乗鞍岳、笠ヶ岳など北アルプスの貴婦人のような美しい雪嶺を眺めることができた。
 飛騨路を堪能して帰名したのは午後9時半だった。

藤原岳で遭難?2012年02月15日

 藤原岳に2/11、登山した人が遭難されたようだ。名古屋市緑区の44歳の登山者という。藤原岳から御池岳へ縦走でもしたのか。三重岳連などが捜索活動中だが見つかっていない。今日で4日目、若いからビバークして生存されているといいが。
http://news24.jp/nnn/news8626785.html
 2/16、三重岳連からの要請でJAC東海支部も救助活動の支援に行くことになった。今夕、私にも連絡が入った。早朝、藤原岳登山口に結集の予定。

藤原岳行方不明者の捜索2012年02月16日

 午前4時半起き、テルモスに熱湯を詰めて出発。6時45分前に大貝戸登山口に結集。これまでの捜索では不明のままで、いなべ署のリーダーから今日の行動の説明を聴く。我々、日本山岳会東海支部5名は冷川谷道を溯ってみることにした。
 林道の奥深く入山してから廃道化した山道を拾う。所々道形が現れるが不明瞭だ。大きな滝を高巻く。Wリーダーは滝つぼもチエックしに行く。地形図とにらめっこしながらルート判断に神経を使う。391m付近の地形図で表現された平からは雪を踏みしめながら溯る。上流に行くに従い、谷が立って来る。大小の滝が連続するが雪で埋まっているので簡単に攀じ登れる。もしも下りにとると厄介な谷である。
 右か左か選択しながら、不明者のオレンジ色のテント、グリーンのヤッケなどをきょろきょろしつつ登って、白船峠に着いた。峠からは冷川岳まで雪庇の三重県側をチエックしてみた。ビーコンの反応もない。峠に戻る。こんな捜索でなければ絶好の春山日和であり、遠くには能郷白山、伊吹山が輝く。
 行方不明の登山者は午前6時半に御池岳を下山すると奥さん宛にメールを送信していた。
 大貝戸から藤原に登り、峠を経て真の谷でテント泊したであろう。空身で御池を往復して、テントも撤収した。その時にメールを打ったはずだ。真の谷から峠を経て山口へ下山するのが想定されるルートである。それは見つからなかった。 
 テント泊だから時間はたっぷりある。であれば鈴北岳経由で鞍掛峠に下ることも想定できる。しかし、それはガスの中では困難なルートであろう。池が点在する頂上はリングワンダリングの危険がある。かつてこの池の畔に古い遭難碑があった。碑文には4月29日の日付、ツエルトの中で凍死していたという。縦走の場合は赤い旗や布を残すことはしない。
 私自身が鈴北岳から鞍掛峠への県境尾根の下山を試みて失敗したことがあった。あの時は滋賀県側の道のない谷へ下っていた。おかしいと、何度も引き返したが・・・。幸いチエンソーの音に引かれて山林伐採中の業者に峠まで乗せてもらったのだった。
 御池のような平頂峰は断崖が発達していることが多い。下るときも大変急だった。ガスの中、しかも厳冬期のこの谷に迷い込むと厄介なことになる。ザイルがあれば懸垂も可能であるが経験3年という。
 鈴北を中心に県境尾根、鈴ヶ岳に囲まれた谷はまだ捜索が行われていない。峠から高圧電線の保守路の道にトラバースし、高圧鉄塔の下でヘリコプターがビーコンで探査するまで待った。何も反応はなかったようだ。明日以降に継続する。
 過去には1月の伯耆大山で遭難したTさんは4日後に雪解けの川を下って、自力下山している例がある。後は精神力だろう。テントがある、食糧もある、火器もある、寝袋も有るじゃないか。同僚らしい同行者がいうには身長180センチの体格があるとか。妻子が待っている。自力下山を祈る。
 いなべ署の救助隊員は連日の捜索活動で疲労気味だ。あの3連休も毎日捜索依頼があったという。みな名古屋の登山者らしい。20年のベテラン登山者だってだめ、とはき棄てるように言われた。登山届けを出して欲しいのだ。基本のキが守られてない。

2月の俳句2012年02月17日

皚皚と名だたる飛騨の春雪嶺

春雪をことによろこぶ普羅の句碑(富山城址)

坂の町八尾を流る雪解川

軒先に春雪重く垂れにけり

未明より春雪降れり越の国

五箇山の媼や春の雪下し

如月の雪下ろしする媼かな

 *  *  *

春暁やムラは眠りの最中なり

春浅き藤原岳の登山口(大貝戸)

春寒し夫(つま)を待つ身の不憫なり

春ストーブ還れぬ人に与へたし

藤原岳班雪(はだれ)を踏みて谷を行く

春雪山還らぬ友の名を呼べり(同僚、冷川岳にて)

残雪にここぞとかざすビーコンを

尾根行けば踏み抜く春の雪庇

絶好の春山日和も楽しめず

遅き日を空からヘリが捜索す

春山の鹿も驚くヘリの音

続・藤原岳行方不明者の捜索2012年02月18日

 未明の4時半、御器所にてO氏らと落ち合い、東別院ICから桑名ICまで走る。かなり早く着いたのでいなべ市で早い朝食を摂り、大貝戸の小屋に向かう。薄っすらと雪があるが問題ない。小屋は照明が点かず、暗いまま。中へ入ると協力を呼びかけたYさんが先着して準備中だった。
 いなべ署、三重岳連など関係者が続々集まりだして緊張の面持ちでメンバーを掌握していく。今日は16名が揃った。ほかにも記名されない人も含むと20名は居られよう。内14名3台でコグルミ谷登山口を目指す。他は滋賀県側に向かうらしい。
 R306は冬季通行止めであるがゲートを開放してもらう。除雪されないので4WD+スタッドレスタイヤでも滑る。パートタイム4WDなので1輪が滑っても3輪が接地しておれば尻を振りながらでも何とか進める。リーダーの車はFF系の乗用車4WDで4輪独立懸架のせいか、接地性、直進性が良い感じでスイスイ走っている。
 コグルミ谷付近までフラフラしながら進めた。そこにPしてから14名でとりあえず、歩き、リーダーパーティー7名は県境稜線につながる無名の尾根に取り付く。残り7名の我々はそのまま進み、鞍掛峠に向かった。トンネル手前から峠道に入る。
 入り口付近に設置された登山届けを探るとなんと捜索中の人の登山届けと下山届けを発見し、回収した。それは2/11.2/12の10日前の日付だった。ここから鈴北岳、御池岳を目指したが下山届では途中の小ピーク1056mで引き返したようだ。偵察山行だったのか。ゲートから歩けばそれだけで体力を消耗することを知ったか。
 実際登ってみると、夏は樹林の中の細道であるが積雪期は想像以上に広い尾根になる。スキーが使えるほどである。ガスられると帰路はルートを見失うだろう。この見分から藤原~御池縦走にしたのかも知れない。ただ、ここでは登山計画書がきれいなPCで作成されているのに今回の登山は出ていないのは何故だろう。知らないわけじゃないのだ。
 新雪の広い尾根を登るが途中から無線で連絡しあい、タテ谷に下ってリーダーパーティーと合流した。しばらく登ると谷幅一杯に雪崩れの跡がある。リーダーの指示でゾンデ棒を数本出して、上方へ20mくらい、雪面に差しこみながら横一列に進む。ここに不明者が埋まっていないか探索した。ゾンデ棒が途中で止まると異物があるということでスコップで掘り進む。みな雪崩で流された木屑だった。
 ここから鈴北岳に向かう。この辺はかつてスキー場として開発計画があった場所だった。素晴らしいゲレンデになるだろう。しかし、自然保護の高まりでつぶれたが良かった。
 鈴北岳は風当たりのきついピークだった。指先が冷える。ここから御池岳は目前に座す。周囲は夏ならば水を湛えたドリーネの点在する自然境である。日本庭園の名前もある。今は樹氷の美しい別天地になっている。厳しい冬の季節風がもたらした美を不明者も堪能されたであろう。
 御池岳に立ってから鈴北岳にも来たのだろうか。鞍掛峠への下山は止めたと思う。登ってきての直感であるが・・・。コグルミ谷道を下山すればいち早く、安全圏に出られるが長い車道を歩かねばならない。冗長な車道あるきは避けたいだろうに。
 今日の我々は鈴北岳南東の県境にあるコブからそれぞれの尾根を3班に分けて下ってみた。最後はコグルミ谷道に合流したが手がかりはなかった。
 やはり、白船峠を越えて坂本へ下ったか。坂本谷は下山ルートとして良くない、と知っていたと思う。2/16は送電鉄塔の道を下ってみたが何も見つけられなかった。
 残るルートはそのまま大貝戸へ戻ることになる。そこで聖宝寺ルート経由が浮かぶ。597mの独立標高点のある広い尾根への迷い込みが気になってくる。このような微地形を積雪期に正しくRFできるのか。赤テープなどのマーキングがあればいいが・・・。
 2/19は聖宝寺道も捜索されよう。間違って茨川へ下れば治田峠経由で三重県側に戻ることもあろうか。結果として御池藤原の全ルートを捜索することになる。
 いなべ署の警察官の話では捜索願いのあった登山者の95%が登山計画書なし、単独行の高確率になるという。
 私の捜索協力も今回で終える。最後に何時かはわが身にとの思いから名古屋山岳会の設立者にして会長だった跡部昌三の言葉を掲載させてもらおう。
 「悪天候は人を死地に追い込むためにあるのではないということである。厳冬1月も寒冷さ、風雪の狂う高所では、人の生存を拒否しているようであるがそこへ登ろうとするものは、それがどのようなものかは、すでに分かっているはずである。また、それに立ち向かう自由と、さける自由は登山者自身に許されている」
 「その五体を安全に守ってくれるのが、山の常識であり、山の技術である。知識だけではなく、ことにのぞんで反射的に行使されるまでに身についていなくてはならない。それは何も高度な技術を要求していない。要するに山での危険というものは、山にあるのではなくて登山者自身にのうちにある、ということを、はっきり知っておくことである。」

Nさんは御池岳~藤原岳の何処に?2012年02月20日

南の銚子岳から眺めた御池藤原の連嶺!
 2/12に御池岳から下山する旨の連絡をしながら消息を絶った名古屋市緑区のNさん(44歳)は13日以来の連日の捜索にもかかわらず、発見されなかったようだ。食料は尽きただろうし、燃料もないだろう。ご家族は絶望感を抱かれるだろう。気の毒だが冬山遭難の現実である。
 何も手がかりが発見されないのも謎である。どこに居るのやら。写真で眺めると
 左奥から御池岳1247m、1241mのコブ、奥ノ平1194m、土倉岳1049mと続き、手前に通称T字尾根が左へ派生し、岳山に続く稜線が延びている。ノタノ坂は藪に隠れている。
 奥ノ平の台地から右へ落ちた中央の谷は幕営地?の真の谷で茶屋川の源流になる。その右のピークが冷川岳1054mで、右手前に盛り上がるピークが1143m三角点の頭陀ヶ平という。高圧電線の鉄塔が建つ。白瀬峠(白船峠)はその間の鞍部である。
 1143△から右は天狗岩1171mのピークでガレも見える。更に右が1128m△でその手前の長い尾根が展望丘に連なる西尾根である。ハイカーがよく登る展望丘は写真にはでていない。
 銚子岳の北へ尾根を下れば廃村・茨川がある。右へ治田峠を経て三重県側へでられるし、左へノタノ坂を越えれば君が畑へ出られる。
 この写真に見える一帯はすべて滋賀県側の範囲である。捜索は山稜一帯と三重県側の登山道を中心に行われた。滋賀県は空からも捜索している。ノタノ坂までと、茶屋川林道の除雪をしているとも聞いた。(2/16)そうすれば車で入れるからだ。
 時間の経過とともに生存の可能性は薄れるばかりである。どこに居るのか。初心者だからそう大胆なバリエーションを選んだとも思えない。バリエーションを選ぶなら道間違いは覚悟の上だ。登山道からちょいと外れた藪の中かも知れない。そう思う。体力があるばかりに動転して動き回っている可能性もあろうか。
 3月に入ったら個人的に登って探してみようか、朝からそう友人と話をした。

続・Nさんは御池岳~藤原岳の何処に?2012年02月20日

Mさん、コメントありがとうございます。 
なぜかコメントの返信ができないので本文で返信します。

<小屋番さんの情報から一致する方が一人おられて、もしかしてその方なのではないかと心配しております。現住所、年齢、ユーザーネームも似ており、1月29日30日と鞍掛峠からP1056を往復しています。

 鞍掛峠の登山計画書と一致しますね。

<もしこの方だとすれば、藤原方面は歩いたことが無く、御池も鞍掛峠から御池、コグルミ谷周回ルートと山口冬期ゲートからの国道歩き鈴北直下往復しかなく、他のルートはよく解っていないと思います。

 多分、Nさんだと思います。但し、2/11は大貝戸にマイカーを置いているとか。それで藤原岳を起点にしているのかと思うわけです。

<12日、私は雨乞岳に登りましたが、1000mラインより上はガスで視界もほとんど効かず、また強風も吹き荒れていました。たぶん御池も同じ条件だったのではないかと思われます。

 2/12に白瀬峠に登られた人のコメントでは足跡はなかったそうです。するとコグルミ谷を下山した可能性がありますが捜索はすでに行われています。タテ谷分岐以降を2/18に歩きましたがとても歩きづらかったです。
 2/16の捜索で冷川岳までの雪庇はチエックしました。2/18の捜索で鈴北から峠へ下る途中の尾根はかなりの雪庇が発達していました。右岸尾根も北西の季節風の影響で雪庇が出ていると思います。うっかり乗ると崩落、踏み抜きもあり、犬帰谷に転落のおそれもありますね。

<この方だとすれば、GPSも持っており、あの気象条件の中では知らないルートを戻るより歩いたことのあるルートを戻るのではないかと思います。白瀬峠や藤原岳までは戻らないのではないかと。

 GPSは使ったことがありません。あまり、正確でないとも聞きます。逆にNさんが使っておられたならば真の谷の幕営地でどんな方向を示すのか、知りたい。GPSに従えばNさんに遭遇できるかも。

<私は、カタクリ峠に向かいコグルミ谷を下るか、歩きやすい右岸尾根を下って国道へとエスケープしていったように思われてしかたありません。この尾根ですと犬帰谷に迷い込むか、国道沿いにある落石ネットの隙間にはまり込むか。あるいは、前回のリベンジに鈴北から鞍掛峠に向かったのか。

 犬帰谷だと厄介です。降りるのにザイルがいるようです。荒れ谷の様相です。(西尾氏の本) 

<いずれにせよなんとか見つけてあげたいです。来週の日曜から、天候を見ながら無理のない範囲で御池周辺を歩いてみようと思います。

 充分慎重に行動してくださいね。私は今週は仕事が詰まっていて動けません。3/1以降にまた山仲間と行く予定です。
 過去には30日間北アルプスの山中を彷徨して救助された例、19日間死地を彷徨ったミニヤコンカの奇跡の生還もありました。奇跡を信じたい。
http://homepage2.nifty.com/m_hayaka/book/bn2084.html