北の山へ2011年07月01日

7/1新潟からフェリーで北海道へ
7/2移動
7/3利尻岳
7/4移動
7/5十勝岳
7/6富良野岳
7/7阿寒岳
7/8羅臼岳
7/9斜里岳
7/10苫小牧からフェリーで敦賀へ
7/11帰名

北の山旅・船旅-前半2011年07月12日

7/1から7/11までの北海道の山旅を無事終えた。

7/1 夜新潟港23時発のフェリーに乗船
7/2 は洋上生活
7/3 早朝小樽港上陸。これで四度の小樽の朝はいつも早々と通過するのみである。いつか再び訪れることがあれば夜の小樽の旅情も味わいたい。
 周囲の山々はすべて若い緑に満ちている。白い北海道しか知らなかった目には新鮮である。7月の北海道は万緑の大地。
 高速道路、一般国道をひた走り、ハマナスの花を横目にホロベツ原野も通り抜けて稚内市を目指して北上。稚内市に午前中に着いて予定より一時刻早い船に乗船できたので礼文島経由で利尻島に上陸。
 礼文島ではわずかな梅雨の晴れ間に恵まれて花を愛でる束の間のミニハイキングを楽しむ。近くには利尻富士の立派な山容が洋上に浮かぶ。浮雲が山頂を取り巻く。その後、礼文島から利尻島に移動して投宿。
 4月に新築されたばかりのペンションだった。露天風呂からは利尻を眺められて利尻尽くしの宿になっている。登山口にも近い。
7/4 3時起床。4時、登山口まで女将さんがマイクロバスで送ってくれる。登山口は4時15分出発。道警のお巡りさんから1名の行方不明者の捜索に協力を依頼される。まもなく行方不明者と思われる高年の登山者に遭い、捜索されている旨を告げて別れる。
 登山道は針葉樹林の森の中で本州の北アルプスと同じ植生の中にある。緩やかな山麓の道を登ると植生も低潅木の中を歩くようになる。ウツギ、ナナカマドなどが花を咲かせる。長官山への急登を終えるとしばらくは緩やかなアップダウンになり、避難小屋に着く。
 避難小屋からは霧が濃い。周囲の景色は何も得られぬままひたすら尾根を登る。9合目からはロープが頻繁に出てきて、登山道も深く掘れて荒れている。傾斜は非常に急になり、足場もますます悪い。
 登頂は10時15分。約6時間の長丁場だった。登頂の喜びは要した苦労の関数という。そうではあるが霧で何も見えなくては単なる満足感でしかない。滞在時間も短くすぐに下山を決めた。すれ違いに多数のツアー登山一行、個人登山者が登って行く。降り始めた雨もなんのそのである。
 避難小屋で12時となり、昼食。雨で避難して混雑していたがゆっくりしているとツアー一行も下山して我々のみになる。入れ替わりにまたツアー一行が来たので小屋を出て下り始めた。長官山では1等三角点を探した。目に付くところにはないのでロープで閉鎖された踏み跡に分け入るとあった。最北のといいたいが礼文岳に次ぐ北の1等三角点である。
 ずぶぬれになりながら狭い登山道を下った。登山道には水が溜まり、濁流となって流れている。たびたび左右どちらかへ水を逃がしてやった。ようやく治まったのは針葉樹林帯まで来てからだった。いつだって森の中は安らぐ。
 傾斜も緩くなり、登山口が近づいた。日本百名水の名水も過ぎて登山口に着いたのは16時10分。約12時間の山旅だった。宿に連絡して迎えに来てもらった。風呂に入り、夕食でもてなしてくれる宿はありがたい。
前夜のメインディッシュは焼き魚、ミニ鍋中心、二泊目の今夜はウニ丼である。女将からはサービスのワインも供された。
7/5 早朝朝食をたっぷり摂って宿を出た。すぐ定期船で渡らねばならないからだ。日本百名山をいくつもの踏破を目指す旅では離島でゆっくりもして居れない。
 下船するとすぐに次の目的地=十勝岳山麓白銀荘までロングドライブの開始だ。広大な農地の中の国道を突進する。
 美瑛町まで来て、スーパーで買い物も済ませる。白銀荘に来るとすぐに食事の支度である。ここはかつて正月休みに来て泊まった。旧山荘時代を含めて2回利用している温泉付き自炊旅館。海産物中心の鍋物にした。
7/6 3時起床4時30分出発。実は山荘の開門は午前5時とのこと。ベルで管理人を起こしてしまったから不機嫌な顔をしながらも開錠してくれた。小雨の中を出発するが十勝岳登山口などの看板はない。それでまたうろうろ。起きていた人から聞いてようやく出発した。山スキーならばシュプールの跡を追っていけば検討が着くが登山道があると入り口をしっかりチエックしないと大変だ。登山口だけでなくすぐの渡渉地点でもわずかな違いで登山道から離れてしまった。地形図で爆発記念碑を確認し、やや下って小さな沢を渡るのだが・・・。
 これから高い所へ登ろうとする人間の気持ちは自ずと上流へと向かうので渡渉地点も上流を探すことになる。しかし、踏み跡は上流へと向かっていない。私はちょっと戻って対岸に看板と踏み跡を見たので飛んでみた。かすかな踏み跡はある。歩いてみると上部で道で藪に消える。他の人も追随してきたが自信を得られず渡渉地点まで戻った。大体こんな超有名な山でRFに苦しむなんておかしいのだ。いくら濃霧であってもだ。
 そのうちKさんが石に白いペンキの印を見つけて行ってみるとそこが登山道だった。目と鼻の先にある。濃霧だとこんなものでも見えないのである。
 避難小屋に着いて一休み。そこからは寒気を覚える風と霧の中を黙々登るのみだった。かつての正月休みには白い霧とホワイトアウトの中に消えてゆくスキーヤーの背中を見ながらここで引き返した。
 今夏道を登って見ると急で目標物に乏しく、風が強い中では引き返す判断は間違っていなかった。無雪期の地形を知っている人ならいいが初めての登山者には難しい。
 ようやく十勝岳に登頂したものの濃霧で何も見えず。昼食もそこそこに下山した。避難小屋で昼食とした。わたしが山スキーで訪れた時の小屋は雪崩で倒壊し、新たに地元山岳会などが再建した。まだ新しいものだった。
 下山後は十勝岳温泉凌雲閣に泊まる予定で上げ膳据え膳であるがチエックインまで時間が余るので車で山を下って美瑛の観光お花畑などを見学して時間をつぶす。
7/7 3時起床4時出発。一般登山道を辿って登りはじめる。すでに駐車場は満杯だ。安政火口を経て山裾のトラバースする道を辿るとまだ雪が残る。登山道の脇には豊富な高山植物が愛らしい。花の山らしい。富良野岳登頂後、周囲を見晴るかす大展望を楽しんだ。
 ある年の元旦、たった一人でこの頂上に立った時は白暟暟の白い大地だった。それが今は若い緑の大地だ。足元には短い夏を争うように高山植物が咲き競う。展望と花を堪能した後は下山。宿で入浴した後は千歳までの大移動がある。一旦、岩見沢へ出て千歳に向かった。

北の山旅・船旅-後半2011年07月13日

7/7 千歳空港でSAKUさんを見送り、SAKAさん、KUさんを出迎えた。空港内のレストランで夕食をとって前半と後半の入れ替えを行った。取って返して道東道をひた走る。途中帯広付近で燃料が不安になり、SAの緊急電話で深夜でも給油してくれるスタンドを紹介して貰い、高速を降りて市中で給油した。道東道にはSAといえどもまだ給油サービスがない。その後も高速に戻り足寄まで走ってR241に出る。コンビニで明日の行動食を買いながら深夜の国道を突進。午前1時過ぎ、目標の阿寒湖畔のホテルに着いた。未明6時まで仮泊。
7/8 6時ホテルを出発。6時45分登山口を出発。雌阿寒岳登頂後、知床半島を目指す。途中スーパーで買い物を済ます。羅臼岳登山口にある木下小屋に入る。木下小屋では自炊となる。今回は野菜と肉の炒め物に不足しがちな青い野菜を多めに摂った。小屋は太陽電池採用とのことだったが持参した電気釜を使うことができた。このためにご飯を炊くことができた。明日のおにぎりも手作りとなる。
7/9 3時起床4時出発。急登の後は極楽平と呼ぶ平坦な尾根を漫歩する気分で歩けた。大沢出会いからは雪渓歩きとなり涼しい気分を味わった。ここも花の山だった。沢の詰めの急登後、羅臼平に着く。ハイマツの海だった。
 ここから岩清水を経て山頂へは小さな雪渓を登り、岩間の道を攀じ登って1時間弱で登頂。山頂にはオーストラリヤからの外人登山者も再び出合う。来日して7年目だが流暢な日本語と心理面でも理解が深く賢そうな若者だった。
 羅臼岳登頂後、同じ道を下山する。木下小屋に別れを告げて斜里岳登山口の清岳荘を目指す。途中スーパーで買い物を済ます。
7/10 3時起床するも朝から雨。午後には止むの予報もあるが帰名の日である。止む無く断念する。代替案として旭岳のロープウェイで姿見池でお茶を濁すことにする。
 大型の観光バスが次々入れ違いに登って行く。ツアーの団体だ。管理人の話では毎日数台以上来るらしい。百名山詣でである。我々もそうなんだが・・・。複雑な気持ち。管理人の仲介でやっぱり登頂を断念した男性を1名便乗させてJRの最寄の清里町駅まで送る。駅名をナビに入力したが町が一字抜けていてもあの小海線の清里駅しか出てこない。駅から再び道内を経巡るロングドライブの始まりだ。雨、小雨、大降り、小止みと変化が著しい北の空だ。
 松尾芭蕉の「名月や北国日和定めなき」は北陸の天気の不安定さを嘆いたのだがわたしなら「荒梅雨や蝦夷に似合わぬ山日和」かな。忠別川の濁流を横目に大雪山のロープウェイ乗り場に着く。
 往復2800円也。雨の中にしては多きハイカーだった。駅では福島県の被災者夫婦も居てスイカのおすそ分けに預った。美味い。
 下山後は山麓の温泉で汗を流す。その後は苫小牧港に走るが西港に行ってしまい東港へ移動するハプニングも。23時30分出航。
7/11 日本海を終日航海後午後8時半敦賀港着。帰名は夜10時過ぎとなった。船内は蒸し暑く、裸で就寝するが次第に冷房が効きはじめて小寒くなる。しまった、と思ったときはもう風邪を引き始めていた。夏風邪というよりは冷房病に近い。帰名すると38℃の高熱があった。変なことになったなと思って医院に直行。今日はもう36.7度まで下がりましが・・・。
  夏の風邪治れば思う蝦夷の山   拙作

實川欣伸著『富士山に千回登りました』2011年07月14日

 ついこの前にも『まいにち富士山』の本のことを書いたが今日も書店を覗いたらこの本が目に留まった。富士登山ブームが起きていることは仄聞しているがその頂点にいる人による相次ぐ出版である。
 日経プレミアムシリーズ。新書版。2011.7.8刊行。著者は1943年生まれで68歳。日本山岳会会員。静岡県沼津市在住。
 どちらも富士山が好きなことでは人後に落ちない。佐々木氏は64歳から始めて800回を達成、實川氏1985年に初の富士登山をして以来というから42歳から始まったことになる。1000回目は2010年10月10日に達成。
 本書には佐々木氏のことも出てくる。顔なじみになるのだろう。全編が体験記に満ちている。富士登山を道楽にしてしまった変人クラブでもあるのだろう。交流記にもなっている。つまり自慢会のようなもので誰かの賞賛を励みにしている気がした。
 話題を変えると山登りにもいろいろあるものだ。
 日本百名山
 日本二百名山
 日本三百名山
 1等三角点百名山
 日本の3000m以上の山を全部登る
 ガイドブックにある山を全部登る
 日本分水嶺を歩く人
 日本の2000m以上の山に全部登った男
 日本の1等三角点968座を全部踏破した男
 みんなすごい人ばかり。しかしこうした記録が山岳雑誌で採り上げられることは余りない。山岳界では初登頂、初登攀が重んじられているからだ。つまりマスコミ受けしないと題材にならなかった。
 もともと山は静かに歩いて楽しむものだった。
 いまどきのニッポンのフジさんに起きた超変な登山ブーム。
 ふっと思いついたのは江戸時代に起きたおかげ参りとええじゃないか、という伊勢神宮への集団巡礼運動である。あの時代も幕末で政治の行き詰まりがあった。
 今もまた国政が行き詰まっている。コロコロ変わるニッポンの首相さんたち。富士山に登ることで濁世、浮世の憂さ晴らしかな。
 しかし本書にそんな視点などあるわけではない。純粋な登山記である。

飛騨・鎌ヶ峰の塩蔵谷を溯る2011年07月19日

 岐阜県山岳連盟が編纂した『ぎふ百山』の一つ。本書はかならずしも有名な山だけを網羅したわけではなく、無名の山も数多い。続編も刊行されて正編は復刻版も出版されている。若栃山に続く飛騨の沢シリーズ。 私は124座完登しているので二登目になる。
 7/17の夕方、W君宅に寄って飛騨清見から高山市へ。夜の市街地を抜けてR361を走る。高根町の道の駅ひだたかね工房で仮眠。ここは標高900mに近い高原の村。とはいっても最初は少しテント内は暑いので外で消夏。夜空を仰いでいるとまるで流れ星のようにふらふら飛んでいく。一匹の蛍が夏の風情を醸し出す。
 7/18、5時に出発。F君の待つところへ車を飛ばす。途中、日和田富士(継子岳の別名)が姿を見せる。
 F君と合流後、峠まで同行。初回は野麦峠から往復したが今回は飛騨側の野麦にある塩蔵谷から往復した。登頂後は稜線の「道」を当てにして野麦峠にもう1台デポした。
 取り付きは野麦集落のはずれにある道路標識で県道に野麦峠へ9kmとある4差路の車道で橋を渡ったすぐのところに路駐。塩蔵谷への林道に入る。地形図野麦では破線路で表現されているが今は整備された林道になり、奥まで続いている。
 7時出発。林道上には大きなホタルブクロが咲いている。林道の脇にはミヤマオダマキ、アザミが咲いている。途中、牛首沢への分岐をチエック。面白い地名である。概ね西日本は谷といい、東日本は沢と呼んでいる。中間地域の岐阜県は洞の地名も多い。岐阜県は混在していると思う。
 ネットの地形図で乗鞍岳から御岳の県境をはさんで地名を比較しても沢と谷の使い分けははっきりしている。稀に谷に混じって沢名も見る。それは人材の東西交流があったからだろう。
 山の命名にも偏在はある。包括的な山、特定的な岳、丸、嶺、森など。例外も多々あるが。ちなみに鎌ヶ峰は木曽側の命名かも知れない。辰ヶ峰、奥峰。
 林道は一旦沢から離れて左へ迂回して巻いて行く。再び沢と出会って並行してから入渓地を探る。枝沢へと迂回して塩蔵谷から離れる寸前がポイントになった。一旦枝沢に下って合流地点まで下る。
 本流の水温はとても冷たい。あとは栃やミズナラ、サワクルミの原生林のうっそうとした中を平凡な渓谷歩きを続けるのみである。滝場は全くない。深い淵も、ゴルジュもない。平凡そのもの。中にはヘルメットのゴミも落ちているし、錆びたワイヤーロープも見られたから一旦は部分的に伐採されたようだ。
 そう思っていると上流部に石垣が見え林道に出会った。日影沢から来ている長大な林道だ。鉄の大きなパイプが橋になっているのでそこを潜って溯った。地形図では左から出合う枝沢のみをチエックしておればよく、スムーズに源流部を詰めて笹に突入した。笹を漕いで県境の踏み跡に遭遇したとの一報を期待したが踏み跡はは無かった。わずかに白くなったテープが枝になびいている。ササヤブと格闘しながら30分もかかっただろうか。笹の中に埋もれた三角点があった。
 さて下山はどうする、と協議。一旦鞍部までくだってみて顕著な踏み跡がない場合は沢を下ることにした。鞍部はもちろん笹の海。わずかな笹の小ピーク2130mがとてつもなく困難な登りを示唆する。意見はすぐまとまり、来た沢を下ることになった。
 困難な場所がないだけに下るのも早い。滝を越える、深い淵を探る、ゴルジュを突破するという沢登りの醍醐味には欠けるものの登山道としての価値はある。
 車に戻って着替え。峠に走って車を取りに行く。F君とはここで別れた。途端に夕立に見舞われる。
 一旦、奈川へ出て境峠を越えて木曽に出た。R19を走って帰名する。

阿久悠著『愛すべき名歌たち』を読む2011年07月25日

 島津亜矢のCD『悠悠 阿久悠さんに褒められたくて』から興味のポイントが作詞家にまで飛び火して阿久悠のことをもっと知りたくなった。
 代表的な歌手のCDをレンタルして聴いてみる。いずれも昔よく聴いたなと思う。どちらかといえば作曲家の方が上で作詞家が下手に置かれてきたのではないか。しかし、阿久悠になると違うと思う。 
 ネットで検索して3冊アマゾンから注文しておいたら続々入荷した。片っ端から読んでみる。
『愛すべき名歌たち-私的歌謡曲史』1999.7.19 岩波新書
 いつか朝日新聞の「天声人語」子が「上を向いて歩こう」の歌が流行っている、とこの本の引用をしていた。「湖畔の宿」から「川の流れのように」まで100曲に絡んで短文を添えて解説。知っている歌は全部で70曲あった。しかし、「上海帰りのリル」などは朝日新聞の日曜版に連載中の「うたの旅人」で最近知ったのもある。
 だから私的歌謡曲史に習えばもう少し減るかも知れない。それでも50曲以上は子供時代から耳に馴染み、口ずさんできた。或いは傍観者としてああ、これが今の流行り歌と聞き流してきた。掲載されていないがペギー葉山の「南国土佐を後にして」は子供ながらもいい歌だと聞き惚れたものだ。
 著者の生まれは昭和12年(美空ひばりと同年齢でいい歌を提供できなかったことが再三出てくる)だから私とはひと回り違う。
 大きなズレはまず「虹と雪のバラード」が採り上げてない点が不満。それゆえに私的とうたっているのだろう。人によって思いいれは違う。巻頭の「湖畔の宿」でも世間のイメージでは「りんごの歌」から始るものと思っていたと指摘を受けたという。要するに阿久悠をペンに駆立てる何かインスピレーションが沸く歌なのだろう。著者への共感は多とする。
 読後感はつくづく日本人は歌が好きだなあと思う。そして山も好きな民族である。『日本百名山』も深田百名山というように私的な要素が混じる。これは仕方ない。万人を満足させるには万葉集のような編纂が必要だろう。ならば阿久さんは人麻呂級の扱いになろうか。

阿久悠著『生きっぱなしの記』を読む2011年07月26日

『生きっぱなしの記』私の履歴書 日経ビジネス文庫 2007.12.1
 日経新聞には著名人の「私の履歴書」という連載記事があって興味を引く。この本は2001年9月に終わった連載を2004年に単行本化されて更に文庫に入った。
著者の半生記であるが連載後数年で亡くなっているから最盛期のことはカバーされている。もっとも功なり名を遂げた大物ゆえに執筆依頼があるのだから著者の生涯は知ることができる。
 大学はでたけれど・・・の時代から戦後の成長期になり、作れば売れた時代から企業は営業に力を入れるようになる。広告は重要なツールとなった。多くの求人を見て新時代の臭いを感じた阿久青年はこれからはこれだと入社する。
 時代と歯車がかみ合って広告会社の社員時代の下積みから売れっ子になっていく様がよく描かれている。無名時代にいかにアイデアを蓄積するかがポイントであろう。企画力は勤務先よりも他社のアルバイトで培われていた。
 そして作詞家に導かれるようになっていく。当時活躍していた先輩の作詞家の模倣を避けるためにいくつかの禁句を作り、持ち前の企画力が発揮されて斬新な歌詞が生まれてゆく。
 しかし、提供する歌手がみな当たったかといえばそうでもない。その時代を背景にして歌手、歌詞、曲の三位一体でヒット曲は生まれる。五木ひろしなどは当たらなかった部類だという。
 よくよく考えてみると大ヒットした歌手はみな人気が短命である。例外もあるが。むしろ中ヒットを重ねた歌手のほうが長持ちする。あの当時はTVの援護があった。今ユーチューブで若かりしころの映像を見られるのはその所産である。
 しかし、バブル崩壊後の歌手は不遇であろう。TVの歌番組といえばNHKかBSしかないそうだ。私はもう何十年もTVを見ないから昨年9月まで島津亜矢、藤あや子などは存在すら知らなかった。ということは20年くらいは見ていないことになる。坂本冬美が最後の記憶にある歌手だった。
 たまたまユーチューブで知った島津亜矢はBSの女王というらしいがBS時代の申し子なのである。BSは限定的な視聴者しかいない。ユーチューブの映像も片隅にBSとある。だからヒット曲が生まれにくい時代と思う。
 時代は目まぐるしく変わった。流行歌などは泡沫(うたかた)のように現れては消えてゆく運命である。阿久悠が大活躍した時代はもっともバブルな時代だった。
 バブルがはじけて平成の時代になると内省的、客観的、傍観者的になった。私も長く流行歌を楽しむことはなかった。北、酒、海、女、恋などどの歌も同じに聴こえた。時代とズレがあったからだろう。
 今改めて聴いている。アイポッドナノに「あの鐘を鳴らすのはあなた」「笑って許して」(和田アキ子) 「北の宿から」(都 はるみ) 、「 津軽海峡・冬景色」(石川さゆり) 、 「舟唄」(八代亜紀) 、 「ざんげの値打ちもない」(北原ミレイ) などのヒット曲とど演歌集他のCDをレンタルして転送して聴いている。
 ずいぶんいい仕事をしたじゃないかと思う。

阿久悠著『清らかな厭世』を読む2011年07月27日

『清らかな厭世』新潮社 2007.10.20
 こんなアフォリズムの書まで著していたんだ。アフォリズムというと芥川龍之介の「侏儒の言葉」を思い出す。小津安二郎の愛読書だった。まだ全部読みきらないが心に響くワンセンテンスを引用してみる。
「人間力は
人と一緒に暮らす力
人力は一人で生きる力」

伊豆半島に住まう著者は自宅が台風で甚大な被害を受けた体験に基づく話。今起きている東日本大震災のがれきの片付けの困難さを想像するとこころにグサリと突き刺す。警世家としての阿久悠の一面を知る。

--ぼくには、雨風の中を屋根に上がって、吹き開けられた穴を塞ぐ力がない。引きちぎられた電線を繋ぐ技術も、断水した水道の代わりに、生活水を手に入れて運ぶ能力もない。また山のような廃材や瓦礫を分別しながら処分する腕力もない。
 ぼくは結構人間力はあると自惚れていたのだが、今度ばかりは、人間力ではない人力に欠けていると、痛感させられたのである。
 中略。
 現代は、社会も人間も、どこにいてどのような人生観を持とうが、都市型社会生活になってきて、他人に依存し、他人に振り分け、そのことがお互い様で成立させる人間力の時代である。そのことが徹底し過ぎ、人力を余りにも忘れすぎたのではないかということである。
 中略。
 何かがあったら、すぐ電話を、二十四時間お助けしますというシステムに包まれているのは心強いが、かといって、過信はよくない。中略。電気も消えるし、電話も通じなくなる。そんな時のためにまずは人力、自らの力と思ったのである。

 2007年8月1日死去。享年70歳。

利尻山遠景2011年07月28日


利尻島へ向かう船から


雌阿寒岳のコマクサ2011年07月29日



霧雨を喜ぶように可憐に咲く