小原町へ吟行2011年04月30日

 4/29は天白川俳句会の4人と豊田市小原町の杉田久女句碑を訪ねた。いつもの喫茶店の句会から12回目の今回は外に飛び出して吟行を企てた。 植田駅前を9時に出発し猿投GRを走り、猿投ICで下りて藤岡町への道を走る。峠を越えると小原町であった。和紙の里で一休みしてから松名の久女句碑に向かった。
 約1時間で到着。枝垂桜はもうすっかり花を散らせていたが傍のドウダンの花が迎えてくれる。いつもと変わらぬ長屋門を潜ると小広い敷地跡に句碑と観音像、すぐかたわらに娘の石昌子さんの墓碑も建っていた。
 敷地内にはドウダンの大きな樹木があり、小さな白い花がこぼれるように咲いている。まるで見守るかのような地味な咲き方である。
 満天星の花が見守る句碑と墓碑      拙作
ここで散策した後、裏手の一段高いところの杉田家の墓地にもお参りする。夫婦揃って墓石が建っていた。いかにもご先祖を敬うような気分が現れている。
 石昌子(1911-2007)はここで生まれてすぐに父杉田宇内の赴任地の九州に転居した。戦中戦後はここで疎開していたそうだ。雑誌「岳人」のバックナンバー29にも随想「茸狩り」があったのを読んだことがある。母杉田久女が昭和21年に病死して後は父とともに郷里に帰っている。昌子は結婚して上京、宇内は死ぬまでこの地を離れず、猟師などしながら昭和37年に亡くなったという。
 それまでは立派な長屋門に続く立派な屋敷が建っていたはず。代々庄屋を勤めた素封家だったらしい。それが明治維新、敗戦を経て杉田家の財産にも大きな変動があったことは想像に難くない。宇内も美術教師で生計を立てる道を選んだのだ。
 杉田久女は素封家へ嫁いだが俳句の才能が開花するにしたがって家庭生活にも波風がたつようになる。その間にも宇内は優しく妻のわがままを見守ってきたようである。近代における女性のガラスの天井(限界)を破ることはできなかった。
 これから100年後にも近代現代俳句史には必ずや採り上げられる俳人であろう。有力な弟子を持たなかったが娘の昌子が子としても弟子としてもよく尽くして今があるように思う。
 こだまして山ホトトギス欲しいまま     久女
九州の英彦山で詠まれた。彼女が有名になるきっかけになった名句である。一度は登りたい山だ。三大彦山の一つ、1等三角点、三百名山、久女所縁の山として。
 一通り散策してから近くの杉田たかさんの家を訪ねた。庭の枝垂桜がまだ満開に近いし、他の春の花もあれこれ一杯さいている。墓を守っているという。中日新聞の4/27付けの中部の文芸にも掲載された。
 加藤かな文さんによるとこのほど句集「時鳥」を出版された由。足元の地を詠んでいる句集ならと、購入を希望すると分けてもらえた。あいにくたかさんは句会でご不在なのでご主人にいろいろ四方山話をねだってお別れした。
 昼食は大福魚苑に向かった。山間の谷間にあって池に面した山家風の家で食事をした。古びた家が何とも俳句の侘び寂を演出しているようで懐かしい。即吟は難しいので持ち寄った俳句で3時間ばかりを句会に過ごした。
 帰宅後は石昌子さんの心境に託したような名曲「おさらば故郷さん」を島津亜矢のUチューブで聴いた。
 春深しいにへえ偲ぶ長屋門    拙作
 淋しさを吹き飛ばすべく山笑ふ  拙作

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