鮎川信夫「山を想う」を読む2010年12月30日

 年の瀬も押し迫った朝。丸の内の事務所へ出かけて残務整理。自宅にあった古い未使用のノート3冊も事務所へ移した。カバンから取り出すとぱらっと落ちた紙片3枚。何だろうと見ると「山を想う」の詩だった。雑務を忘れてまた読み耽った。これは確か鮎川信夫(1920-1982)の作品。WIKIの詩一覧によるとこの詩は1978年から1982年の作品。60歳頃の発表と見られる。

     『山を想う』
                 鮎川信夫

  帰るところはそこしかない
  自然の風景の始めであり終りである
  ふるさとの山
  父がうまれた村は山中にあり
  母がうまれた町は山にかこまれていて
  峰から昇り尾根に沈む日月

  おーいと呼べば
  精霊の澄んだ答えが返ってくる
  その谺のとどく範囲の明け暮れ
  在りのままに生き
  東洋哲人風の生活が
  現代でも可能であるのかどうか

  時には朝早く釣竿を持ち
  清流をさかのぼって幽谷に魚影を追い
  動かない山懐につつまれて
  残りすくない瞑想の命を楽しむ
  いつかきみが帰るところは
  そこにしかない

 鮎川信夫は東京の生まれだが両親は岐阜県の石徹白(当時は福井県で戦後昭和33年岐阜県に編入された)。鮎川もこの地で終戦を迎えた。25歳だった。
 多感な青年の目に両親のふるさとが心象風景として焼き付けられた。「父は農本主義的なナショナリストで、世間的には温厚な人格者でありながら、家庭内ではすこぶる冷淡な人間であったため、鮎川にとってのモダニズムは〈父親イメージへの反逆から始まった〉と後に語っている。」
 石徹白は江戸時代は白山信仰に仕える社人のムラで無税帯刀を許された特殊な社会だった。実際に住めば閉塞感の強い地形にうんざりすると思う。その上に精神的にも圧迫感があったのだろう。
 しかし長い年月が流れてふるさとの山として昇華された。今年は一度でも石徹白に遊んだだろうか。いやあどうも行ってないぞ。来年は行ってみよう。残雪の山、沢登り、渓流釣りと。

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