映画「私の鶯」鑑賞2010年03月16日

 1943年に製作されたが戦局を反映した当時の判断で未公開のままであった不遇な映画。幻の映画といわれる。東宝と満映の提携作品。ロケ地はハルビン辺りか。満鉄が誇った「アジア号」の雄姿がちらっと出てくる。1984年に大阪でフィルムが見つかった。
 映画は基本的にロシア歌劇の名歌手らが出演する音楽映画のジャンルに入る。もちろんお目当ての李香蘭も中盤あたりから登場する。そして声楽の歌い方で画面狭しと活躍。この映画は満洲が舞台であるが中国語の場面はなくほとんどがロシア語(日本語の字幕)である。だから歌も当然ロシア語であった。あるサイトから概略をコピーする。
 「満映時代の映画の中で、ちょっと紹介したいのが 『私の鶯』 と 『萬世流芳』 です。特に 『私の鶯』 は幻の映画といわれ、満州でも日本でも上映されず、淑子自身がそれを見たのは1984年になってからでした。大阪で偶然フィルムが発見されたためであり、それも2時間モノが途中編集され、1時間10分に短縮されていたのです。
 王道楽土の交響楽/岩野裕一 には、『私の鶯』 はタイトルを変えて上海で上映されたことがあった、との記載があります。
 『私の鶯(1943年作)』 は当時の金で40万円をかけた大作で、淑子をはじめ、ロシア人も多数出演したミュージカル映画でした。
監督は島津保次郎、音楽担当は服部良一。
 島津保次郎が、来日したハルビン・バレエ団を見て感激し、友人の岩崎昶とミュージカル映画(当時の言葉で音楽映画)の構想を練りはじめたのです。東宝の重役である森岩雄に相談すると、森は東宝と満映に働きかけ、満映が主体となって制作することになりました。島津は脚本も手がけ、助監督には満映の池田督と李雨時。通訳としてロシア人も雇われました。ちなみに岩崎昶は戦後になって群馬交響楽団をテーマにした映画、ここに泉あり(主演 小林桂樹)を制作しています。
 原作は小説家大仏次郎の 『ハルビンの歌姫』。ロケは当時の国際都市ハルビンで行われ、ハルビン交響楽団の指揮者シュワイコフスキーをはじめ、多くのロシア人声楽家、音楽家の協力を得ることができたのです。あらすじはこのようなものでした。
 1917年、ロシア革命によってシベリアから満州へ亡命、逃走してきたロシア帝室歌劇場の白系ロシア人歌手たちが、ある町で日本商社の支店長隅田(黒井洵)一家に救われる。しかし、その町も戦闘に巻き込まれ、オペラ歌手たちは隅田一家とともに数台の馬車に乗って町を脱出するが、途中で隅田の乗った馬車が落伍し、妻(千葉早智子)や幼い娘・満里子(ロシア名マリア、李香蘭)や歌手たちを乗せた馬車とはぐれてしまう。
 隅田は、中国各地を巡り、行方不明の妻子を探すが見つからずに15年が過ぎる。実は妻は病死し、娘の満里子はオペラ歌手ディミトリー(グリゴリー・サヤーピン)の養女マリヤとなり、ハルビンに住んでいたのだった。
 ディミトリーはハルビン・オペラ劇場で歌いながら、マリヤに声楽を教えていた。マリヤもロシア人音楽会で「私の鶯」をうたい好評を博してデビューするが、おりしも満州事変勃発後、ハルビンの街は混乱する。騒ぎはおさまったが、ディミトリーは病に倒れ、失職し、マリアがナイトクラブで「黒い瞳」などを歌って生計を支える。そのマリアを隅田の友人の実業家(進藤英太郎)が見つけて隅田に引き合わせ、親子の対面をするが、ディミトリーの気持ちを考えて、自分のところに引き取ることはしない。
 ディミトリーはオペラ劇場復帰が決った。マリアも日本青年画家・上野(松本光男)と結ばれ、一家に春が蘇るが、ディミトリーは晴れの舞台で歌劇「ファウスト」の最後の場面を絶唱したあと倒れる。
隅田、上野らとロシア墓地に詣でた満里子は、ディミトリーの墓前で「私の鶯」を歌って、心から冥福を祈るのだった・・・。(李香蘭 私の半生)
 淑子演じるマリアがソリストに抜擢され、ハルビン満鉄厚生会館の野外音楽堂でハルビン交響楽団をバックに美声を披露するシーンは、この映画最大の呼び物だそうです。
 さて、この映画がなぜ上映されなかったかというと、まず1943年という年を考えなくてはなりません。戦時一色に塗りつぶされた当時は、戦意発揚を目的とした映画ならともかく、軟弱と見られていた音楽(しかも敵性音楽)を主体とし、白系ロシア人も多数出演し、しかもセリフはロシア語が中心で日本語がほとんど出てこないような映画には、当局の許可は下りなかったのです。
 島津保次郎と池田督は、『日本は必ず戦争に負ける。負けるからこそ、よい芸術映画を残しておかなければならない。やがてアメリカ軍が日本を占領したとき、日本は戦争映画だけでなく、欧米の名画にも負けない秀れた芸術映画を作っていたという証拠を残しておきたかった』 と語り合ったといわれています。 」
 出演した俳優の黒井洵は後の二本柳寛(1917-1970)の本名。当時26歳。1951年の「麦秋」では子連れの40代の男やもめの役。原節子の結婚相手の役をする。李香蘭も23歳で輝くような美しさである。実人生でもロシア人女性の声楽家に歌のレッスンを受けている。それが生かされている。
 もう一つの「サヨンの鐘」も李香蘭の歌が入る音楽映画であるが台湾の高砂族(蕃社)が舞台。これは1943年に松竹と提携。濁流に飲まれた少女サヨンの物語。子供映画が得意な清水宏監督。悲劇だから全体として楽しい映画ではない。しかし現在鑑賞できる貴重な李香蘭の作品。李香蘭はサヨンの歌、渡辺はま子はサヨンの鐘を歌う。後者が映画の内容に沿っている。