奥黒部の句碑(遭難碑)2009年08月17日

 8/14の朝はかなり冷えて寒かった。水晶小屋を出発したのは午前5時の予定が5時30分になってしまった。トイレが混んでいたこと、快晴の空に感動して呆然となってしまったのだろう。
 黒岳の縦走路に入り、黒岳に登頂する。続いて赤牛岳であるがゴロゴロした岩屑の道から急に地質が変わり、赭(あか)い色になる。隣りの薬師岳も同じ色である。素晴らしい展望の山旅に遅遅として歩が進まない。
 昨日は一日中霧の中を歩いた雲の平も今日は黒部五郎岳に平伏すごとく広大な高原を見せる。右隣は野口五郎岳である。正面は立山であり、奥には剣岳が顔を覗かせる。
 赤牛岳は何の変哲もない山頂に過ぎないが結構な人数の登山者で賑わった。何と行っても北アルプスのど真ん中である。展望が半端じゃない。途中、赤牛沢を遡行して登頂を果たしたパーティとすれ違った。上の廊下を経由して遡行しても登れるのである。
 さて読売新道の長い下りには閉口した。ガレ場の下りはまだしも樹林帯は風も無く、ぬかるみがあって歩きにくく難儀させられた。
 穏やかな樹相のぶな林の中の道が平坦になり、奥黒部ヒュッテの手前に長い間見たかった遭難碑があった。山に登って俳句を詠んだ俳人の福田寥汀が建てたもの。そこは令息の福田善明が鉄砲水で消息を絶った場所であった。昭和44年8月11日奥黒部東沢出合にて同行の岡部浩子と共に遭難死した。15日から捜索行、10/10に現地で慰霊祭。寥汀64歳であった。
  秋雲一片遺されし父何を為さん    寥汀
とある。
この句に続いて
  秋風や遺品とて磧(かわら)石ひとつ
  稲妻の斬りさいなめる真夜の岳
  しばたたく露双眸の涙星
  流木に凭(よ)りまどろめば風は秋
  晩夏湖畔咲く花なべて供華とせん
  焚火消す葬るごとく砂をかけ
などの一連の7句の追悼句を含む「秋風挽歌」で翌年45年の蛇笏賞を受ける。昭和56年の13回忌まで奥黒部へ通ったという。75歳になっていた。以上は岡田日朗編『福田寥汀の世界』(1989年梅里書房)による。
 帰宅後、すぐに読んだのは冠松次郎『渓』(中公文庫)の中の「赤牛岳に登る」である。東沢からも登っている。もちろん遡行してであろう。