ウエストンの白馬岳登山2009年05月07日

 『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー)によるとウエストンが来たのは明治27年7月のことだった。19日に直江津を出発。糸魚川までは船で行く。7/20には姫川を溯り、大所川に沿って樵夫小屋に着きますがこれは多分木地屋のことでしょう。当時はもう木地屋を止めて百姓になり、杉の幹を加工する生業に変わったようだ。明治初期、戸籍制度を作り、住民を定住させるために山に火を放すことを禁じる法律を作った。地租改正もあって山の木を自由に伐れなくなった。
 20年位前の3月、天狗原から木地屋へスキーツアーで降りた。タクシーを待つ間木地屋の家でビールを飲み、自家製の野沢菜漬けを提供されて美味しかったことが思い出される。
 7/21の午後5時に野生的な浴場と表現した蓮華温泉に着いた。挿入されたハミルトンの写真を見ると粗末な小屋に驚く。文字通り野生的である。青年団のパーティは夜遅くまで酒盛りをして大満足で「劇的な詩」を歌っていた、と書く。「劇的な詩」とは何だろうか。恐らくは民謡か俗謡か。他の客も喜んで聞いていた、とも書く。和やかな雰囲気だったのだろう。
 7/22の午前4時に起こされて出発。2時間で蓮華銀山に着く、とある。精錬所跡とは銀山だったのか。検索中に面白いことが分かった。三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が蓮華銀山の会社社長をしていたという。
しかしこの事業は失敗。山師の哀れな末路が見えるようだ。
 ここから白馬岳に10時に登頂。その道を往復した。当時は大蓮華の峰と呼んだ。温泉から6時間で登ったから相当な健脚であった。
 あとはさらっと書いて終る。
 少しづつ少しづつ理解できる範囲で読んでいくとウエストンは近代的な登山の普及者であると分る。しかし、山の湯に親しみ、山の民の観察もする。山旅の名人は民俗学者の資質もある。広く親しまれてきた所以である。
 ここまで書いてふと最近買った渡辺京三『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を思い出す。実はこの本にもウエストンの本が出てくる。著者は江戸時代を一文明として捉え、それを外国人の観察になる著書から日本人に紹介した本である。日本人は悪いこともいいこともすべて捨てて変わってしまう、という。江戸時代もいい所があった。古き日本が夢のように美しい国、という外国人の言説の紹介。それを「逝きし世」と表現したのである。
 バスも通わぬ中の蓮華温泉こそ美しい。別天地である。兵馬ノ平は規模こそ小さいが箱庭的なまとまりがある。周囲の遠景もある。時を忘れて埋没できる自然郷である。

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