中村草田男『俳句と人生』を読む2008年11月22日

 中村草田男は俳句どころの愛媛県の生まれである。1901年に生まれ、1983年に没。実に分かりやすい生涯である。但し、俳句の方は難解であまり親しむ機会のなかった俳人であった。人口に膾炙した「降る雪や明治は遠くなりにけり」「万緑の中や吾子の歯はえそむる」位の記憶しかない。
 それが何で今更草田男か。所属誌の連載原稿を書いていてふと「軽み」についての考察が空疎だったことことへの反省からである。思えば『山本健吉読本4』の中の「軽み」の論ー序説をさらっと読んでそれでこと足れりとしていたのだった。軽みを芭蕉の最高の境地と説いた山本説は一つの見解に過ぎないことを本書から教えられた。草田男は晩年の芭蕉の俳句を検討して「もうすでに内的生命の緊張、充実というものが見られない弛緩状態、つまりゆるみに陥り始めていた」と指摘。だから最高の境地であるわけがない、というのである。
 解説には「昭和49年、評論『軽み』の論ー序説によって俳壇に衝撃を巻き起こした。中略。結果として俳壇に「おもくれ」や思想性の軽視といった風潮を生む原因となった」ことを指摘している。検索してみると当時は俳句雑誌でもよく採り上げられた由。この山本説に賛同する俳人は少なかったようだ。山本健吉は国文学の知識が豊富だったと思うが実作者でないから空論に走りがちである。その弱点をつかれたと思う。
 ちなみに山本は明治40年の生まれであり、草田男は6年早い。この点でも実作者にして俳句の理論家だった草田男にして看過できなかったと思う。
 しかし、今は山本健吉が拠点とした角川書店から『山本健吉読本』が出版されているから読者たる俳人は無批判に山本説を受け入れやすいだろう。俳句の老舗書店のジャーナリズムには適わない。
 ともあれ楸邨、波郷、草田男らは昭和14年の「俳句研究」誌の座談会で人間探求派と呼ばれた。その時の司会が石橋健吉後の山本健吉であった。当時まだ30代の初めである。花鳥諷詠の虚子と袂を分った水原秋桜子に続いて分派していった時代である。月や花といった伝統的な俳句から人生を読む主観的な俳句が広がり、文学的な野心を満たしたのであろう。
 というわけで現在はその考えが敷衍して人事詠全盛で主観的な句が多すぎる。主宰など指導者側も俳句は人生を詠むものと指導するようだ。それはそうだろうがやっぱり俳句は自然を実景を直叙したいもの。軽みの考えが無批判に敷衍するとまたぞろ江戸時代末期のような月並み俳句がはびこる。自然を詠んでもやはり人間性はでるのだからあえて人生など持ち出すこともない。草田男もまた距離を置いて読むべきである。そんな読後感であった。