鈴鹿・沢納め(谷尻谷からクラシを経てクラシ谷下降)2008年11月06日

愛知川と谷尻谷の出合にて
 今年最後の沢納めである。少し早めにしたのは諸々の事情を配慮して優先した。この時期最高の鈴鹿の自然を堪能したかった。
 例によって11/1の夜はW君の家に寄って鈴鹿に向う。同行予定のF君は子供の病気で来れなくなって朝発となった。とある場所の一角で明かす。夏と違い、外で寛げないし、2人ということもあって盛り上がらなかった。
 11/2の朝、F君も合流。F君が懇意にしている朝明茶屋に車を停めさせてもらった。ありがたい。するとK女史に出会った。知人らも朝食を摂っているところであった。今日は行事で来て泊まっていた。
 先ずはハト峰峠を目指すがいつもの道が途中でおかしくなり、林道にヤブをくぐって上がった。上から見るとこの道も山抜けで埋まっているような気がする。
 峠を乗り越し、白滝谷沿いに下る。黄葉はまだ少し早そうである。愛知川に降り立つ。ここは相変わらず、いいところである。黄葉も美しい。ハーネスを着用して準備する。外人の登山者が下流から登ってきた。流れに沿って行くが夏は泳いだ深淵も今回はパスして高巻く。尾根を越えてすぐに谷に降りる。
 いくらも歩かずに谷尻谷出合に着いた。ここからは直接入渓できないので少し下ってガレの浅い沢を攀じると左へ赤テープで導かれる。踏み跡もしっかりある。テープを追って行くと難なく下降ポイントに来れた。木にシュリンゲがぶら下がっているがお助け紐を出してもらい下る。ここまでは随分以前に来たときのままである。
 巨岩が散乱する河原を眺めると印象が随分違う。左岸の切り立つ崖からの落石でゴーロになってしまったのであろう。以前は石飛しながら楽に溯れたはずである。
 すぐに小さな滝に出合うが直登は出来ないので確保してもらい、左岸のバンド伝いに高巻く。ここでも以前の記憶がないのでこんな厳しい沢だったかな、と疑問を持つ。以前との大きな違いは30歳代は体重が63Kgで今は75Kgもあり、オーバー気味であるということだ。身軽だった頃はフエルト足袋、シュリンゲ2本とカラビナだけの簡易な装備で遊んでいた。怖いもの知らずだったとも言える。
 この高巻をこなすと後は技術的に大したことはない。鈴鹿らしい楽しい沢歩きが楽しめた。岩堤の滝は一風変わった自然の造形美である。古くから名前の知られた滝はここだけであろう。
 やっと体が沢モードになって来たと思ったらもう見覚えのある道標がぶら下がる北谷尻谷との出合であった。お金峠への道標も見える。ここで休んでいたら単独の登山者2名に出会った。重装備の一人は大峠方面へと北谷尻谷へ向かった。登山靴なのでお金峠か狐峠を越えてきたものらしい。もう一人は上谷尻谷へと行った。多分ワサビ峠を越えるのだろう。
 かつて私も銚子ヶ口から北谷尻谷を下り、この出合からワサビ峠を越え、中峠を越えて朝明に下山したことがある。下谷尻から遡行した際もおそらく日帰りなのでワサビ峠を越えたのだろうと思う。つまり、上谷尻は完全に詰め切っていないと思う。すっかり忘れていた谷であるがこの秘境的空間も登山者から忘れられた山域である。
 せせらぎの流れに沿って登るもよし、落葉を踏みしめて自在に彷徨するも又よしの庭園風の空間である。樹種はシロモジが多く、窯跡も多い。マンガンを運搬するトロッコの車輪やレールの残骸も見た。茶碗のかけら、一升瓶も見た。マンガン鉱山の事業で多くの鉱山労働者が働いていた時代の産業遺産である。煮炊きするために木が伐られ、炭に焼いた。この平も造成されたかに思うほどである。
 シロモジは幾度も伐られては再生したが今は樹高も高くなり、適度な空間を作る。もうはや需要がないために伐られることはないだろう。そんなことを思いながら上流へと詰めた。先ほどの登山者がワサビ峠に向う後姿を見送るともう我々だけになった。
 ビバークサイトの検討をしながら詰めたが適当な平は上流ほど見当たらない。少し戻って沢から2m程度の段丘に居を定めた。幹と幹に張ったロープでツエルトをセット。後は夕食の準備、焚き火用の枯れ枝集めにと慌しく過ぎた。暗くなるまでにすべては準備し終えた。焚き火は一発で着火に成功した。今年は100%の成功率である。乾燥した枯木が良かったのだろう。W君が100円ショップで見つけた着火剤も多いに手伝ったと思う。メタよりはずっといい。
 焚き火に当たりながらF君の手作り料理に舌鼓を打った。900mlの日本酒もぐいぐい入っていく。日常の飲酒では得られない旨さである。
 11/3は5時に目覚めた。まだ真っ暗であるが朝食の準備をしていると段々明るくなる。片づけをして7時過ぎ出発。谷はすぐに狭くなり、二股になる。右をに振る。威圧するような滝はもうない、と思いきやF君が先頭でなにやら指示している。30mの繊細な滝が見えた。黒々として水量も少ないが秋ゆえに周囲の紅葉がライトアップするように映える。光量が少なく、カメラが暗い。
 左手前のガレを登ろうとするとヒルがいやいやするように首を振る。この時期でもヒルは活動するのか。途端に気味悪くなり、WリーダーのRFに従い、やや戻って落葉に埋まる枯れ谷を攀じて尾根に上がる。尾根を詰めて滝上あたりを目掛けて下った。再び緩斜面の流れと広い雑木林の広がる二股に来た。
 既登のF君によると二股を左にとれば廃鉱跡からクラシに近い所へ辿れるらしい。ここでは右に振った。石垣の小台地があり、5mの滝に出合う。高巻ラインを探したが結局は直登した。更に溝状の小滝を攀じるともう源流の様相となった。正に水脈(みお)細る感じである。
 両岸に笹が繁茂し始め、樹幹に苔が生える。濃い霧の山なのであろう。水が絶えて草生す溝となり、一面霧の平に飛び出した。クラシの一角に着いたのである。足元は笹原のはずだが一面枯れていた。移動していくとヒカゲノカズラが進出し始めていた。やがてヒカゲノカズラの原になるのであろうか。ヒカゲとはいうが日向を好むシダ植物である。氷河期の生き残りと聞いたこともある。生命力が強い植物であろう。
 『鈴鹿の山』にはススキの原とあり、『渓谷7』の鈴鹿特集には1979年の記録に笹原とあるから植生が三度変わったのである。正確にはヒカゲノカズラ植物門というらしい。酸性土壌でも生育する。ススキは酸性土壌に一番強いらしいが、なぜ変化したのだろうか。山頂一帯は風当たりの強い風衝草原でもある。そんな乾燥にも強いはずだった。
 以下に仮説を立ててみた。
①ススキは茅葺の材料になり、イブネクラシは採草地だったかも知れない。火入れをすれば又再生したが今は不要になったこと。火入れをしないために地味が痩せて笹原に変わった。
②笹は乾燥に弱いかもしれない。割合短期間に枯れた。
③かつてイブネクラシの山頂には雑木林が成立していたはずであるが炭焼きのために伐採した。伐採後は風衝地、乾燥土壌、酸性土壌になって樹木は再生できず、ススキ草原になったこと。
 かつてはたたら製鉄のために大量の製炭を必要として伐採が繰り返されたためか中国山地は今も笹山が多い。イブネクラシの山頂もそんな文化の歴史を秘めているのかもしれない。
 既に午後に近くなった。計画していた佐目子川源流を探る案は撤回し下山にかからねばならない。まず濃い霧の中を登るのはクラシの山頂だけにとどめて予定外のクラシ谷の下降で合意した。
 背の低い笹の溝を辿りながら下ると二股にでた。すぐ下では3mほどの滝があり、懸垂下降した。風のない谷で昼食を摂る。ドンドン下る。あちこちに炭焼き窯の跡があった。前方がすっぱり切れる感じなので大きな滝が予想された。果たして2段40mの大滝であった。
 まず5mの滝を懸垂下降、次は右岸に寄って懸垂下降、更に左岸に寄って懸垂下降した。30mのザイル1本しかなく手間取った。しかし、ここを最後に困難な滝はなかった。後は広く緩くなったクラシ谷を徒渉しながら愛知川出合に下った。
 愛知川出合はまるで高速道路みたい。早い流れと水量が本流と支流との格の違いを見せる。それに黄葉の美しいこと。思わず写真を取り捲った。
 後はもうタケ谷に沿う登山道を根の平峠まで登ればいい。峠からは08.9.2豪雨で氾濫した白い河原に驚きながら朝明までゆっくり歩いた。

加賀・奥三方山と奈良岳に登る2008年11月10日

 11/8(土)は軽い山行でもと思ったがいい山が浮ばず、ただのドライブとなった。郡上ICで降りてR156を北上する。スーパーのバローで食料を買い出して油坂峠を越える。九頭竜湖の橋の近くで休憩しているとやたらに観光客が多い。対岸をよく見ると全山黄葉の様相である。このままR158を行くより、伊勢峠を越えてわざわざ遠回りして大野市へ行くことにした。
 吊橋タイプの橋を渡る。右折するともう観光客はいない。湖岸のやや狭い道をドライブする。付近から山腹、山頂に至るまで黄葉、紅葉の満艦飾である。空が曇り気味なのがたまに傷であるが雨が降らないだけマシであろう。
 特に伊勢峠付近はブナなどの黄葉が極まった感じで車から降りて堪能させてもらった。こんな美しい黄葉があろうとは。地名は秋生であり、正に秋が生まれた気がした。ここから御伊勢山への登山道を探ったがない。谷を行くしかないようだ。疎林のままなら行けるかもしれない。約1,2Kmある。
 峠を西へ行くと笹生川へと下る。真名川へ行き、R157を北上した。大野市、越前勝山を通過。谷トンネルを通過。白峰村を走る。セイモアスキー場へと入る。旧河内村である。河内千丈温泉を過ぎて更に林道を奥へと走る。間もなくゲートが現れるがチエーンの取り外しができるので入れた。比較的いい道を走ると工事現場の入口で広くなっている。現場は右へ川を渡るようだが奥三方へは施錠のしてない林道を走る。簡易舗装やダートが交互に現れる。危険を感じるような悪路となったところで引き返した。この周辺の黄葉も見事で全山黄葉であった。引き返したのは工事現場の入口の広場で、今夜はここでテントを張って過ごした。
 11/9、朝5時前に起床。食事後、テントを撤収し車で出発。林道の途中で停車した。まだ奥へ走れたが歩くつもりでいたから走れた分だけ時間の節約になる。6時50分に出発した。素晴らしい黄葉を眺めながら歩くと林道の崩壊地に着いた。足場を確保するために岩が削ってあり、フィックスロープもセットされて歩きやすくなっている。もうかなり固まっているのであろう。崩壊地も難なくパス。ここから林道も草生す状態になる。すぐに登山口に着いた。
 登山口を一歩入ると素晴らしいブナ原生林である。大方は散ったが一部名残の黄葉が見られた。ここらをぶな茶屋というのであろう。かなりの急登である。尾根に沿って行き、やがて奥三方山に向かい犀川と直海谷川に跨る稜線を横断し始めた。直海谷川の源流の水のない溝状を横切る。よく掘り込まれた登山道と間違わないために赤い布で導いてある。地元の河内山岳会のボランティアであろう。
 ブナ茶屋辺りは笹ヤブはなかったが源流部は日当たりがいいせいか笹が繁茂している。笹ヤブを刈り払ってある。ここはもう標高1400m近辺。こんなアップダウンを2、3回繰り返す。そのうちの最後の溝の左側にぽっかり空間がありそうなので行ってみると池であった。ここが鏡池であろうか。標識はない。山の池は瞳とも詩的な表現をされるがここも丸くて可愛い。なるほど鏡のようである。
 奥三方山の分岐へは急登を喘がされた。左には常に高三郎山の三つのピークが見守る。石川県の岳人に人気の高い山と聞く。その奥にも奈良岳、見越山、赤魔木古山、大門山の山なみが続く。ようやくの思いで分岐に着いた。標柱があり、直進は奈良岳に向う。右へは奥三方である。すぐに奥三方に向かった。約400mの表示がある。
 奥三方山の頂上に着いた。周囲は樹木が低く、落葉後なので見通しがいい。あいにく高曇りで白山はすっぽり雲の中に隠れている。大笠山も山頂付近が雲の中で見えている樹林帯は霧氷で白くなっている。初冬の山の雰囲気である。先ほどまではドーム形だった奈良岳がここからは尖峰に見える。金沢セイモアスキー場から続く尾根の道は刈りはらいがないために笹ヤブに覆われていた。残雪期にはスキーが使えそうな尾根である。スキー場のリフトが稼動中なら標高1000mまで稼げるから有利である。林道の入口が標高500m、登山口でも830mしかない。車をぎりぎり上げられる所でも750m。スキーは素敵な乗り物である。
 簡単な食事を済ますと下から昨日、口三方岳の登山口で見た親子が登ってきた。遅れて単独行の男も来た。3パーティ8人が山頂に立ったことになる。奈良岳に向って下山を開始。分岐からもしばらくはササヤブが刈り払われて快適であった。奈良岳を結ぶ吊り尾根の鞍部までは刈ってあったが先はヤブがあった。それでも困難なほどではない。大したことはないと登山を続行。小さなコブを越えると益々尖って見えるのは山頂かと期待したが登り切っても山頂ではなく、1561mの前山であった。山頂に近づくと霧氷が見られた。今年初の霧氷の山である。
 先頭が山頂に着いた。もう留まってこちらを見ている。やれやれの思いで登頂できた。三角点があり、奈良岳の立派な石碑が置いてある。かつては故人のTさんとぶなお峠からスキーを走らせ、赤魔木古山でビバークし、大笠山に登ったことを思い出した。残雪期の奈良岳はまるで雪の砂漠だった。出会った石川の岳人パーティーの話では積雪20mにも達するとのこと。今年は少なくて10mくらいとのことだった。そんな話も鮮明に記憶されている。今はヤブが深そうでとても行く気がしない。
 奈良岳から先ほどまでいた奥三方山を見ると堂々としている。風格がある。奈良岳のついでに登る山ではなく奥三方山だけでも満足できるだろう。逆にぶなお峠から奈良岳に来て、奥三方山を往復する気になるだろうか。内尾へ下山するならいいが。そんなことを考えているうちにもう下山である。何しろ、今は日没が早い。
 登る時はどこまでヤブを漕ぐのやらと思った吊り尾根も下るとなれば容易である。時間的にも早い。分岐を過ぎてからも休むことなく下り続けた。高三郎山の三兄弟に別れを告げて再びぶな茶屋を横断する。春ならば花が咲き誇るところだろう。やがて尾根の急下降になり、登山口に降り立った。
 林道まで出ればもう安心だ。荒れた林道を行くと20分余りで崩壊地をパス。ここまでの林道は4WDなら走って来れるだろう。途中にセダンのような車ではアプローチアングルとデパーチャーアングルが長いために路面に当る所があるからである。
 林道沿いの黄葉、紅葉が素晴らしく映える。やや暗いが写真を何度も撮影した。そのうちに車を停めたところに着いた。殆ど林道を歩き通した感じのところである。河内千丈温泉は時間がなくパス。帰路は金沢西ICから北陸道を選んだ。
 名古屋へ向ってから東海北陸道経由もあったし、割引中に気づいた。ETCカードを使って、通勤割引をゲットするしかないが1300円、1350円、1800円と合計4450円也。小矢部経由なら通しで5000円。通勤割引ならいくら節約できただろうか。みみっちい話ではあるが。

11月の俳句2008年11月16日

  11/2-11/3谷尻谷からクラシ谷下降

  秋深し人来ては去る垢離掻き場(北谷尻出合)
  
  露営して夜の長さをもてあます
   
  コンパスを手に彷徨いし霧の山

  シロモジの黄葉(もみじ)且つ散るクラシ谷

  黄落や炭焼き窯の跡多し

  秋風やかつてはありし峠茶屋

  行秋や下山まで待つ茶屋の女(ひと)

  山の湯の最後の客や秋の暮

  11/8-11/9奥三方山と奈良岳

  パック入りおでん温むテント内

  つづら折れの山路を飾る冬黄葉

  谷奥の白き布めく冬の滝

  枯れ葉踏む音も親しと歩くなり

  山にまだ心をとどむ散り紅葉

  ブナ茶屋の限りなく見し枯木立

  枯木立つ山の小池の寂しさよ

  神留守の白山裾の見えるのみ

  犀川の高三郎の山眠る

  霧氷見ゆ十一月の山の上

  休みなく下れど山路は暮早し

  子狸と別れを惜しむ山の暮

『東海山岳』10号刊行!2008年11月18日

 去る11月13日夜、今池の「ガス燈」なるレストランで『東海山岳』10号の編集にタッチした全員で慰労会を持った。本を編集する過程ではまず原稿集めなど様々な悩みが山積していたが一つ一つ解決しながら上梓に漕ぎ着ける慶びは何度経験しても得がたいものである。そもそも出版編集に携わる機会は滅多にない。依頼があると煩わしいと思う反面、又やるか、と一念発起することになる。
 本書は10月1日付けで刊行。800部。山岳会の内輪の出版物であるが海外遠征から国内の記録、研究、報告などが375ページにぎっしり詰め込まれている。
 圧巻は海外遠征でローツェの南壁完全踏破の記録が巻頭を飾る。p127までが海外遠征で充実した内容である。インドヒマラヤ登山隊2005の記録、同2007の記録、台湾・玉山2005の記念登山、クビ・カンリ、ナンガパルパット、七大大陸最高峰登頂、ラダック山脈ルケルー峰と記録報告でほぼ30%も占める。
 他には北インドの地質とヒマラヤ山脈の形成、白山十二の道、猿投の森の樹木、地域研究中央アルプスの山と谷、下山後のケア 温泉を利用した積極的疲労回復法などの研究、論考、室堂から新穂高温泉「北アルプスオートルートバリエーション」と上の廊下横断、赤牛岳、温泉沢経由単独山スキーの記録、白く高き山々へ 2004年6度目のアルプスは海外の紀行、その他の活動報告から構成。
 筆者も書き溜めてきた中央アルプスの山と谷の記録、山村の研究、紀行などを投稿してサポートした。岳人に投稿した記録も含めて原稿用紙80枚分になった。多いというのでかなり削除したが23ページにもなる。ローツェが19ページ分なのでバランス上、もっと削除を求められた。しかし雑原稿がなかったせいでなんとか通してくれた。本来は概念図、写真などももっと増ページ要因はあった。本は充実を言い出すと切がないのである。そこが編集者の権限のもっとも重要な機能であろう。本は出版できるだけで満足、投稿して掲載してもらっただけでありがたいと思う。

中村草田男『俳句と人生』を読む2008年11月22日

 中村草田男は俳句どころの愛媛県の生まれである。1901年に生まれ、1983年に没。実に分かりやすい生涯である。但し、俳句の方は難解であまり親しむ機会のなかった俳人であった。人口に膾炙した「降る雪や明治は遠くなりにけり」「万緑の中や吾子の歯はえそむる」位の記憶しかない。
 それが何で今更草田男か。所属誌の連載原稿を書いていてふと「軽み」についての考察が空疎だったことことへの反省からである。思えば『山本健吉読本4』の中の「軽み」の論ー序説をさらっと読んでそれでこと足れりとしていたのだった。軽みを芭蕉の最高の境地と説いた山本説は一つの見解に過ぎないことを本書から教えられた。草田男は晩年の芭蕉の俳句を検討して「もうすでに内的生命の緊張、充実というものが見られない弛緩状態、つまりゆるみに陥り始めていた」と指摘。だから最高の境地であるわけがない、というのである。
 解説には「昭和49年、評論『軽み』の論ー序説によって俳壇に衝撃を巻き起こした。中略。結果として俳壇に「おもくれ」や思想性の軽視といった風潮を生む原因となった」ことを指摘している。検索してみると当時は俳句雑誌でもよく採り上げられた由。この山本説に賛同する俳人は少なかったようだ。山本健吉は国文学の知識が豊富だったと思うが実作者でないから空論に走りがちである。その弱点をつかれたと思う。
 ちなみに山本は明治40年の生まれであり、草田男は6年早い。この点でも実作者にして俳句の理論家だった草田男にして看過できなかったと思う。
 しかし、今は山本健吉が拠点とした角川書店から『山本健吉読本』が出版されているから読者たる俳人は無批判に山本説を受け入れやすいだろう。俳句の老舗書店のジャーナリズムには適わない。
 ともあれ楸邨、波郷、草田男らは昭和14年の「俳句研究」誌の座談会で人間探求派と呼ばれた。その時の司会が石橋健吉後の山本健吉であった。当時まだ30代の初めである。花鳥諷詠の虚子と袂を分った水原秋桜子に続いて分派していった時代である。月や花といった伝統的な俳句から人生を読む主観的な俳句が広がり、文学的な野心を満たしたのであろう。
 というわけで現在はその考えが敷衍して人事詠全盛で主観的な句が多すぎる。主宰など指導者側も俳句は人生を詠むものと指導するようだ。それはそうだろうがやっぱり俳句は自然を実景を直叙したいもの。軽みの考えが無批判に敷衍するとまたぞろ江戸時代末期のような月並み俳句がはびこる。自然を詠んでもやはり人間性はでるのだからあえて人生など持ち出すこともない。草田男もまた距離を置いて読むべきである。そんな読後感であった。

八事アルプスを行く2008年11月23日

 昨日はのんびりと過ごしたために中途で終えたスタッドレスタイヤの交換を何とか午前中には終えた。この車は平成15年の夏に乗り換え、タイヤは冬に買ったので5年目を迎える。四輪駆動車でもややスリップが多くなった感じなのでそろそろ交換の時期だろう。それにしても交換作業が年毎にきつくなる。15インチのタイヤは結構重いからだ。整備屋にやってもらったこともあるが自分でやる方が冬を迎える心構えもできていい。
    交換にやや汗ばむや冬タイヤ
    レンチ冷たし手袋をして持てリ
 朝、起床時に干しておいた蒲団も正午には陽が陰る。ベランダが東南の角にあり、今時の太陽は出るが早いか西へ掠める様に移動して行く。東の彼方には猿投山が冬靄に霞んでいる。来週辺りから白い御嶽が見られるようになるだろう。
    健やかな眠りを願い蒲団干す
    尾張野の彼方に眠る猿投山
 雑用を終えて13時10分八事アルプスの点名:裏山81.2mに向けて歩き出す。まず塩釜口から八事裏山に行くが目的地に直接行ける道はなく迂回。R153に一旦出て古い踏み跡を探す。乗り越し付近を探ると照葉樹林を主体に楢類の雑木林の中に鮮明な山道が続く。しかし、地形図にある実線の道が見つからない。我慢して歩いていくと広い道?と思ったがコアラの食べるユーカリの植栽地であった。周囲の道をぐるっと歩いたが三角点はない。人家に近いところほど難しいのである。ヤブ越しに周囲を見廻しても高いピークはない。こんな所でうろうろもしておれないので勘で適当に踏み跡を下ると元のR153の道に出てしまった。ちょっとした山っ気を味わった。
     霊園が借景とや実南天
     冬麗ソフトボールの試合なり
     小春日や大キャンパスに屯する
     ユーカリの整然と立つ冬木立
     伐らずして高く伸びたり冬木かな
     並木みなカナダ楓や紅葉散る
     大き目のカナダ楓の落葉かな
 高峯町から名大前を通過し、四谷通りを下った。本当の目的地はシマウマ書房という古書店であった。約2時間かかった。ここでインターネットで検索しておいた前田普羅『飛騨紬』という句集を購入。昭和21年の本なので紙質は悪くボロボロであるが時代を感じさせる古書は高価でも何となくありがたい。本山駅付近のコーヒー屋で一休みして地下鉄で栄へ。
      物言わずマスクのままで注文す
      マスクしてアイスコーヒー注文す
 丸善に行くと旧友のO君にひよっこり会う。綾小路なんとかの本を探しているとか。私は最近の金融危機関連の本を3冊購う。GMの倒産が現実味を帯びてきたし、大恐慌は回避できないようだ。GMの崩壊はアメリカ経済の行き詰まりを象徴する。新聞雑誌には楽観論と悲観論が交錯して分らなくなっている。プロも大きくやられている。100年に一度の危機と腹を括るとしても一定の知識は必要である。ずしっとした手提げ袋を提げて帰宅。
      暮早しどの客もみな足早に

続・八事アルプスを行く2008年11月24日

八事:裏山の4等三角点
 10:40.昨日、見つけられなかった点名:裏山の三角点81,2mに再度出かけた。今日は午後から雨の予報がでているので午前10時40分自宅を出た。とりあえずはポイントになる実線の道路を探るために三角点に近い住宅街からアプローチした。ほぼ地形図どおりの実線の道が発見できた。ここは舗装道路であり、これでこの上にあると判断できた。
 舗装路をしばらく歩いてゆくと竹薮があり、はっきりした道が山奥へ走っていく。ここが登山口?らしいがここはパスした。近くの立派なお屋敷の表札には荒川某の名前があり、昨日見た道標?の荒川家はここであった。ずばり直登したのでは味気ない。
 更に行くと前方からマウンテンバイクの人が地形図を片手に見ながら走って来た。彼も裏山を探索しているのだろうか。左に最後の民家を見送ると舗装路は切れ、地道になりすぐその先は行き止まりの柵があり、車は行けない。左へはR153の交差点辺りへの山道が下る。柵を越えるとすぐに右の山側へはっきりした踏み跡が登ってゆくので入って見た。今度はハイキングシューズなので安心だ。滑りやすい落葉の上を砕きながら歩く。ちょっと登ると雑木の黄葉がある。その先で分岐があり、車のホイールキャップで代用した道標がかかる。もう一つ小さな標でも左へ三角点を示す。おやおや存外簡単に辿り着けたものである。
 11:25に登頂!!??。4等三角点が埋まる。1時間もかからない。散歩の感覚である。照葉樹林の木立に囲まれて周囲の眺めはなし。写真を撮ると先へ下り、鞍部から登り返すと昨日、ユーカリの植採地を巡って来た道の分岐に着いた。
 何のことはない。分岐からものの5分程度で三角点はあったのだ。地形図では三角点のあるピークのみ等高線が盛り上がっているがここも同等のピークであるから錯覚したのだ。また、三角点に向って下り、鞍部から左への道を下ると荒川家の前に出た。これで一周した。
 舗装路を再び歩いて今度は地形図の実線の道を調査してみた。行くほどに狭くなり、おたま池に着いた。池からはちょっとした急坂があり、登りきって下ると昨日のユーカリへの道へ出た。これで昨日の散歩コースとすべてつながる。つまり、実線の道はおたま池とユーカリの間は車道として一度も利用されたことがなく開発中のままで終っているのだ。昨日のコースを辿ってR153へ戻った。まだ12時前である。霊園を横切って名城大の球場から次の目的地の点名:市営墓地:61,4mに向った。ここは八事霊園内の道路を辿れば簡単に見つかると思ったが墓地の周囲をいくら探してもそれらしいものはない。地形図と現地を照らし合わせても見当もつかないので諦めて道路に戻った瞬間、真ん中に埋まる白い+印のある石を見つけた。これぞ4等三角点であった。国地院の文字もアスファルトに埋まるが+だけでも充分だろう。やれやれであった。
 12:30過ぎ、車道を下って名城大学の構内に入ったとたんにポツリと雨が来た。昨日の宿題にプラスして2座探し出せてよかった。折角の3連休というのに変なところでお茶を濁してしまった。

初冬の加賀・富士写ヶ岳に登る2008年11月30日

 11/29(土)までは良かったが週末は雨100%の予報である。それでもW君は実行。幸い名古屋はあがっている。金山で待ち合わせて一路北陸路へ。白鳥辺りはまだ路面が濡れていてあがりつつある。油坂峠を越えるとR158は深い霧雨に見舞われた。路傍には先だっての雪が寄せられている。
 ビバーク予定地は霧で見落とし、九頭竜の道の駅を探ったが雨に濡れる。思案の末、以前2回利用したことがある荒島林道の入口にあるキャンプ場の東屋を思い出して行ってみた。トイレの照明もあるし、東屋の枠内にピッタリファミリー用テントが設営できた。これで濡れずに一晩過ごせる。
 11/30(日)の朝5時起床。夜来の風雨が強かったが快適なテント内であった。そそくさと朝食を済ませてまた強雨の中を出発。R158からR157、R364と走り、我谷登山口に行くが相変わらず、強雨で流石のW君も強行は躊躇した。出発を2時間遅らせることにして山中温泉の入湯に転戦したがどこも早朝で入れず。結局、うろうろする間に空が見る見る晴れていく。それっとまた登山口へ走った。
 10:00.非情にも登山口から長いダム湖の吊橋を渡るとまた降雨。もはや強行登山となった。本格的な山道の登山口で雨具を着用してゆっくり歩く。尾根の中心を忠実に辿る。高圧電線の鉄塔を過ぎると基本的に急な尾根が続く。周囲は栗、コナラ、クヌギ、リョウブといった雑木林である。上部に行くとブナが混じり、尾根が痩せてくると石楠花が目立つようになる。意外にも暖地性の青木が林床に多い。緩斜面と急斜面を繰り返しながら標高を上げる。
 雨は霙となり、斜面には雪が見え始める。標高を上げるにつれて一面に雪に覆われる。思いがけない雪山になった。視界は晴れないが雨よりはましである。やがて前山との分岐に出ると山頂へは近い。風当たりが強いせいで矮小化した潅木の中の道を行くと12時半に山頂であった。小広い山頂には山頂標が2基と1等三角点、展望盤が設置されている。石楠花の花の開花の折りは大勢のハイカーで埋まるようだが初冬の今日は地元のハイカーが空身で単独で往復していたに過ぎない。
 寒い山頂では弁当も開けず、パンで誤魔化す。休みもそこそこにして12時50分、山頂を辞した。次は分岐から涸れ淵登山口に下る。やや手狭な感じの登山道は我谷のメインルートに比して狭まる。前山も若干のハイカーが休める広場がある。ここには加賀市出身の深田久弥の詩碑が設置されている。その文句は判読しがたいが
「山の茜(あかね)を顧(かえり)みて 一つの山を終わりけり 何の俘(とりこ)のわが心 早も急(せ)かるる次の山」というもの。
 前山からはかなりな急斜面の道を慎重に下った。途中、クリタケ(らしい)キノコを発見して大喜び。スーパーバッグに詰めて持ち帰る。尾根道は相変わらず、急で登りには使いたくない登山道であった。傾斜は更に増し、フィックスロープもあって親切な配慮がしてある。尾根から沢沿いの道になり、そのまま下るかと思いきやまた尾根を越えて14時40分に道路に下りた。
 道路は我谷登山口まで約6kはあり、徒歩で行くしかない。ようやく登山口に戻って、R364を南へ戻る。途中丸岡温泉の「たけくらべ」に入湯。500円也。またR364から県道、R416と走り、北陸道の福井北ICに入った。ETCカード2枚で一度長浜で出て、通勤割引をゲット。一宮ICまで計2150円であった。
 かつて山麓から仰いだ秀麗な里山版の富士を今度は晴れた日に再見したいものである。