奥ノ畑谷から雨乞岳に登る2008年07月08日

 7/5(土)夜、伊勢側のとある場所でキャンプ。

  テント張り終へてビールで乾杯す
  
  反り身して見上げる人や星涼し
   
  それぞれに山を語らふキャンプかな
  
  寝袋のなきまま眠り明け易き
  
 7/6(日)に石榑峠を越えて甲津畑に向う。フジキリ谷の橋の所にP.
   
  ヤマビルが早も狙ふや千種越え

  じんじんと水の冷たき夏の谷

  河原にて憩ふひと時ソーダ水

  青葉闇ひたすら谷を溯る

  山奥のそこだけは草茂るのみ

  夏虫に向けてスプレーす谷の中

  万緑や牡鹿の逃げる音逃げる音

  鹿の馬場めく清水の頭青嶺かな

  頂上や早も飛ぶなりアキアカネ

  夏雲を伊勢に従へ鎌ヶ岳

  山上の池の蛙の雨乞ふ声

  奥山の茂りに潜む鹿の声

  杉峠涼し手負ひの信長も

  下闇や蓮如遺跡井戸もあり

  近江去る峠まで見し夕焼けかな

  土産にとせめて泉の水掬ふ

近江鈴鹿源流行奥ノ畑谷を溯る2008年07月12日

 7月の初めとあってはまだ梅雨も明けきらない。山岳書の校正、俳句の文の資料読み込みなど平素からちまちまとやっていたが金曜日の深夜は一気に片付ける好機であった。5日はこの所たまっていた疲労回復に当てた。
 7/6の沢登りに参加を申し込んでおいた。5日は久々のWハウスに泊まれるという楽しみの方に惹かれていた。本郷でKさんを拾って、Wさん宅に立寄る。そこで例のWハウスなどキャンプ用品を積み込んだ。商用車キャラバンも若干沈み込むほどの大所帯である。車が喜んでいるようだがそれ以上に私が喜ぶ。
 O君たちとは現地で集合した。現地の入口で丁度鉢合わせした。ここは鈴鹿山麓の一角にある高台である。標高はわずか200m足らずなので夏涼しいとは言いかねる。それでも大気は澄み、星空が広がる。星に詳しいKさんがあれこれ説明してくれる。
 テントに落ち着いてまずはビールで乾杯して積もる話を愉しんだ。ほんとにこんな寛いだキャンプ生活は1年ぶりか。いつも仕事場で待ち合わせしてすぐに現地へ直行していたから余りに忙しい山行ばかりであった。鈴鹿は近くて自然が豊富でいいということになった。
 7/6の朝、4時には目覚めた。むっとした熱気はなく、少し冷えた感じがした。寝袋がなくても寝れた。簡単な朝食をすました。テントを撤収。マイカーで竜の登山口を経由して石榑峠を越えた。
 甲津畑は初めてのところである。鈴鹿に登り始めた30年くらい前から意識していた地名であった。あらかた登った今も行く機会がなかった所であった。甲津畑は小さく固まった山村であった。集落の手前で迂回するように左折して奥へと走る。
 やがて藤切谷の銘板のある橋があるところが広くなっており、そこが千種越えすなわち雨乞岳の登山口であった。身支度をして軽自動車でも厳しい道幅の林道を歩き出す。すぐに善住坊の隠れ岩なる名所があった。信長を狙撃した男が隠れていた岩場である。そこが谷に下る近道でもあり、遡行開始となった。
 フジキリ谷は平凡でこれといった見所はなかった。山道は桜地蔵に近いところから橋で右岸に渡る。ここの河原で一服した。ここからも谷通しで遡行した。やはり変わらずであった。それでもどうしても通過できない淵があり、右岸に登った。大峠への分岐をやり過ごし、杉峠と奥畑谷の分岐すなわちユラバシから右折。しばらくして奥畑谷とフジキリ谷の分岐に懸垂下降した。そこはフジキリ谷の核心部であった。ゴルジュが続き手強そうだ。
 奥の畑谷の遡行が今日の目的である。早速、遡行するとすぐに4mほどの滝であるが簡単に巻ける。すると上で人口のダムがあり、がっかり。仕方なく右岸を巻いて上流に下る。しかし、そこからも顕著な滝などはなく、ナメもない。平凡な谷であった。谷歩きに飽きてしばしば右岸左岸の傍を歩いた。昔は踏み跡でもあったのだろう。赤テープも残っている。左には樹木の生えていない広い畑の跡があった。昔は鉱山の人たちが開墾したのであろうか。奥畑とはまさにここではないか。やがてO君がかつて歩いた際の記憶に炭焼き窯の跡を発見。そこから右に行けば奥の畑峠に上がれる。
 今回の遡行の究極の目的はかつての紀行、ガイド、記録にもない奥の畑谷の完全遡行であった。『鈴鹿の山と谷4』でも谷名の項目は省略、『渓谷7』でも独立した項目はない。遡行価値はないとして省略されたのであろう。しかし、雨乞岳に直接突き上げる谷としては奥の畑谷がもっとも自然に富んでいるように思う。
 炭焼き窯跡からは平凡な渓相が続いた。やがて水流が絶えて、樹林帯に消えた。笹を漕いで尾根に上がると見晴らしが良かった。清水の頭が美しい山容である。そして鹿の群れが駆け抜けていった。大峠辺りの笹原は鹿の馬場である。すると先頭で突然、大声が上がった。まるで鹿が飛び上がるように跳ねてきた。立派な角を持った雄しかである。微かな踏み跡は鹿の道だったのだ。私たちを避けて谷に飛び込んでいった。
 ササヤブを漕いで山頂を目指した。胸から上はでているので恐怖感はない。これは鈴鹿の良さである。何となく高みへ高みへとヤブを漕いでついに山頂に立った。だれかが7時間かかったといった。時計は15時ジャスト。こんな登り方をする鈴鹿は贅沢である。下山しても今ならまだ明るい今の時期だけのボーナス期間だけである。時間をたっぷり消費して休日を過ごす、この充実感が素晴らしい。沢から登頂してこそ至福の一時も満ち足りる。
 既に3時である。食事も終っている。しばらくはとりとめもなく過ごした。東雨乞に人が見えた。それも消えるといよいよ我々が消える番かとおもうが今度は鹿が山頂に立っていて興趣が尽きない。ヒグラシの寂しい鳴き声、アキアカネの飛来、蛙の合唱を聞きつつ大峠の沢なる池をやり過ごして山頂を発った。
 杉峠に至るまでも素晴らしい景色の尾根歩きだった。近くの愛知川源流の谷から鹿の警戒する声が絶え間なく聞こえた。杉峠は1年ぶりである。あの時は雨で登頂を断念した。涼しい風が吹き抜けていく。かつて狙撃されて軽い傷を負った信長もここを越えた。我々は西へと下る。
 最初は急な斜面もうまくカーブを付けて歩きやすくしてある。街道たる所以である。思いのほか自然豊かである。やや荒れ気味であるが歩行困難ではない。いいほうである。大木に感嘆し、ヒルに恐れをなし、蓮如遺跡まで下った。その先では往路を帰る。ヒルが付きまとうので休みなく歩いた。

奥美濃・気良烏帽子1595mと烏帽子岳1625mに登る2008年07月16日

 いささか古く愛用している『コンサイス日本山名辞典』で烏帽子山、烏帽子岳は60座余りを数える。東海地方で烏帽子岳といえば先ずは鈴鹿北部の烏帽子岳を思い浮かべる。奥美濃では旧徳山村の烏帽子山がある。長良川流域では母袋烏帽子、荘川村と明宝村の境の烏帽子岳がある。とまあ意外に少ない。何れも既登であるが三角点がないばかりに登頂の機会を逸してきた気良烏帽子が残っていた。
 ある日の朝刊に三井物産の三井の森の意見広告が掲載された。岐阜はヤカンバタなる写真であった。遠方には小高いピークが聳えている写真である。どこかで見たが・・・。はてなと検索すると何と明宝村の地域であった。それは烏帽子岳であった。
 更に検索をすると気良烏帽子にまで道が整備された情報が飛び込んできた。烏帽子岳は以前、水沢上林道からトライしたが林道の廃道に手こずり、根曲がり竹に閉口して退散させられた記憶があった。それで冬にスキー場からスキーで往復したのであった。これで一件落着と行きたいが欲張りなもので無雪期も一度は行きたかった。
 「美濃一人」さんのサイトの昨年の秋の情報を頼りに以前、退散したNさんにも声をかけて急遽登山に行った。新しく西俣川の林道が開通していた。『美濃の山』はそのルートであった。
 7/13(日)名古屋を出たのは3時半、Nさん宅を4時に出発。燃費を気にしてスローで行った。長良川SAで休んだこともあり郡上ICには6時前に着いてしまった。折角のETC割引を得られず、もったいない。燃費より高速の方がずっとメリットがあったのに。せせらぎ街道を走る。気温は19度と快適な温度。
 明宝スキー場の一角をかすめて登山口のきずなの森のゲートに着いたのは7時。先着が1台あったが山釣りのようだ。7時10分ゲートをくぐる。すぐに三井農林の無人の事務所がある。周囲はかなり成長した杉の植林地である。直射日光を避けられるので森の中はありがたい。最初の分岐は左折。橋を渡ると2回目の分岐である。廃道の水沢上林道と西股林道の分岐で左折。すぐに洗い堰がある。少し上流に回り石飛で徒渉。サワグルミの大木を左に見ていくと大きくU字形にカーブする。その先で3回目の分岐となり、杉の幹に右へエボシとスプレーで塗布してある。これは登山者か。左はマルトとある。どうやら関係者みたい。
 尚も杉の植林地帯であるが次第に高木となり、自然林が混じっていることに気づいた。カーブがきつくなり、高度を上げ始める。右からの沢を洗い堰みたいな橋で渡る。上手には白い葉のマタタビが見える。
 4回目の分岐に出合った。左へとったが間違いと分かったのは1時間後であった。地形図の読み違いで良く似た林道の分岐が2箇所あり、最初の分岐で間違えた。戻って歩き出すと又、右へ新しい林道が開削されている。5回目の分岐である。看板を読むと平成19年の工事であった。これは地形図にない分岐である。ここでも慎重にチエックした上で引き返した。右カーブして行くと緩やかになり、6回目の分岐である。ここは森から開放されて明るいためか、見通しもよく地形図で分かった。
 左を取るとすぐに左へ鋭角に曲がる分岐があった。7回目である。登山者らしい古い紐がぶら下がり、その先にようやく2m幅の切開きがあった。ここが登山口であった。10:35。
 最初は植林であるが岳樺、ブナと登るにつれて植生が100%自然林に変わる。途中に錆びたワイヤーが放置。自然林であるが二次林であろう。急傾斜から緩傾斜になるとブナもよく成長している。Nさんが遅れ勝ちになるのは撮影に忙しいためであろう。三叉路で右烏帽子岳、左気良烏帽子の指導標があった。まず左折して気良烏帽子へ。以前は道がなかった所為でチエーンソーで伐開されたばかりの荒々しい感じである。5分で登頂。11:55。期待以上の素晴らしい山頂である。何より三方に開けている。大きな山は鷲ヶ岳、白尾山へ続く無名のピーク、母袋烏帽子、晴れておれば御嶽、白山も見えるらしい。気良の山里も俯瞰できる。周囲は落葉樹林であり、黄葉も素晴らしいであろう。12:25。戻る。
 三叉路に戻って三角点に行く。ぶな林が濃厚である。社有林なのに良くぞ残されたものである。日経の新聞広告によると100年の歴史を有するという。断片的にメモって見ると、企業の社会的責任、森林の機能や価値を重視、社有林を通じて、それらを広く世の中に訴える、森林には社会にとっての大切な機能がある、世の中全体で共有したい、人間はやはり、自然に親しむ本能を持っている、今の若い人たちが自然と接する機会が少ないのは、心配です、それもあって社内外の多くの人のために、社有林を活用していきたい、など色々な社長の考えが活字となって紙面に刻まれる。
 ブナは橅とも書き、木で無いから資源とはみなされなかった。ところが水資源の保護に無くてはならない木であると理解されるようになった。白神山地は今や世界遺産である。かつて台風直後の銚子洞を遡行した際大水なのに水量は対して増えず、濁りもしなかった。ブナ、ミズナラなどが吸収していたのであった。森林にはダムの機能があると理解されるようになった。それを実感したものである。
 さて、烏帽子岳三角点へはかつて道があったせいでよく踏まれている。三角点へは10分であった。12:40。約10mほど熊笹が刈り払ってあった。若干は見晴らしが良い。オサンババへの稜線は笹の密生で辛うじて歩ける程度である。素人には無理である。無雪期は余り登山者が居ないせいで苔が生えて新鮮な山頂である。人気の山なら土がむき出しになり、ゴミの一つも落ちているがここは何もない。
 13:05。往路を戻った。登山口は13:50。きづなの森ゲートは15:23であった。往復約8時間超であるが1時間は道迷いのロスがあった。
 下山後は登山道を整備された「もりっこはうす」の事務所に立寄った。ヤカンバタのことも聞きたかったが入山については許可が要る、入山してもらいたくない、など消極的である。訳を問うと道迷いが多いらしい。特に山菜取りが多いらしい。我々でも間違えたから地図も磁石も持たずに入山すれば道迷いは必至であろう。それに何故か母袋烏帽子の登山道の情報問い合わせや『ぎふ百山』踏破の目的の問い合わせも多いらしく迷惑そうな感じである。折角登山道を整備していながら先述の三井の森の意思は浸透していないようだ。そのはずでここは「めいほう高原」の夏のイベントなどを扱うようだ。三井とは無関係であった。
 高原を下る帰途、明宝温泉に入湯した。久々のお湯を愉しんだ。せせらぎ街道から気良の山里にも向った。『ぎふ百山』の烏帽子岳に掲載の写真は気良烏帽子なのであった。名馬磨墨の産地のモニュメントがあるところから遠望するとイメージが蘇った。以前はここからも沢を伝って登山された。三角点に烏帽子の名前は譲ったが気良から眺めてこそ烏帽子の形に見える。磨墨は気良烏帽子の麓、数河の地で天馬の種を宿し、生まれた伝説がある。
 道の駅明宝からは朝も見たが再び「絶高」の端正な山容を眺めた。三角錐のきれいな山である。この山は酒井昭市『美濃の山飛騨の山』に出てくる。お店では明宝ソーセージを買い、うどんを食べて帰った。郡上のR156に戻ると高速は渋滞気味で美並ICまではR156で行く。
 奥美濃の山を堪能した一日であった。

白山北方稜線を歩く2008年07月24日

 7/5に開通した東海北陸道の清見から白川郷までを7/18夜初めて通過した。長いトンネルだった。真上は猿ヶ馬場山と籾糠山である。トンネル工事中に落盤事故があり、完成が長引いた。ひょっとして湿原の水が抜けるんではないか、と心配したが・・・。 
 7/19から7/21まで白山北方稜線を漫歩する目的で大窪登山口から入山したが異常な暑さに7/19の妙法山で下山となった。7/20も暑そうで大門山だけで軽くお茶を濁して帰った。
 
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  大窪登山口で準備しているとワンボックスカーが来て草刈の準備を始めた。今年はまだ草を刈っていないのであった。白川村出身であるが今は岐阜市に住むという青年が一人、草刈機の歯の目立てをやり、登山口から刈り始めた。昔は村総出の仕事だったと聞く。大窪の村は廃村となり、トヨタ自動車が購入した。登山道を維持する村人はもういないのだ。そしてトヨタは宿泊業を始めている。村の依頼で登山道だけは維持しなければならない。僅かな労賃でも鶴平新道を草茫々にしてはならないと働く。我々もありがたく登らせてもらおう。

 夏草や面影も無き大杉家

 白山に仕えるごとく草刈りす

 名にし負ふ大杉の墓夏木かな

 鶴平の墓が見守る登山口

 さみとりのブナに分け入る登山道

 ザック重し暑さにも耐へ忍ぶなり

 蚯蚓伸びて今日を占ふごとくなり

 蒸し暑きブナの茂りし夏木立

 大汗にたちまち絞るほど濡るる

 ササユリのさはに咲きをり尾根の道

 炎天の頂上や日陰欲し 

 病葉の赤鮮やかなナナカマド
 
 炎天の尾根に風なし逃げ場なし

 香取線香焚きつつ登る虫除けに

 キスゲ咲くもうせん平なる原に

 白山の天の雪渓見へにけり

 諦めて日盛りの道を下山せり

 ギンリョウソウ樹林の蔭を棲みかとす

 白山のお湯に日焼けが沁みるなり

 有るだけのボトルに詰める泉の水