新刊『旗振り山』2006年05月25日

 京都のナカニシヤ出版から『旗振り山』が出版された。著者は柴田昭彦氏で45歳の養護学校教師というから畑違いもいいところである。まだ購入していないが久々に購買欲の湧く本である。
 JACの会報で知って早速Nさんにも教えてあげた。Nさんには養老山地の多度山の北にある狐平山に行ってみようと、以前から誘っている。狐平山こそは相場振り山であった。「養老の三角点」というHPのリンクで偶然知った山であった。
 Nさんの勤務先の創業者Gさんはこの当時の米相場で大儲けしたらしい。そして三越、松坂屋などが建ち並ぶ大津通り周辺、檀渓通り周辺の土地を買った。江戸時代は武家屋敷だった不動産は駐車場となって毎日収益を揚げている。
 相場の情報は数字を旗を振って表現したという。売買の情報は堂島と名古屋を結んで毎日旗が振られて双眼鏡で読みとられて主人にもたらされたであろう。Gさんの銅像が海津市に建立されているというから情報の拠点となっていたのであろうか。
 すると鈴鹿南部の高畑山もその類であろうか。畑は旗の当て字かも知れない。今の緑区辺りにもあるかも知れない。

コメント

_ 柴田昭彦 ― 2006年07月07日 22時11分52秒

拙著に注目いただき、ありがとうございます。

実は、「旗振り山」の本では、愛知県内の旗振り場は資料不足で、あまり、詳細が明らかになっていません。

上の記事を読んでから何とかせねばと気になっていて、ようやく、思い立って、平成18年7月1日、愛知県図書館に5時間半こもって、郷土資料数百冊の悉皆調査をしてみましたところ、「西尾町史上」「大府町史」「豊橋市史第3巻」に古老伝承の記述が見つかったのでした。判明した新発見の通信ルートは次の通りです。

「桑名-名古屋-桶狭間-知立一里山-八ッ面山」

「八ッ面山-蒲郡(がまごおり)の遠望峰(とぼね)山-豊橋-八名郡嵩山(すせ)の山上-浜松」

「大府町の観音寺山の南部-阿久比(あぐい)」

「大府町の横根山-岡崎」

これらの地点については、今後、確認作業が必要と思いますが、今までに、誰も、調べて公表したことがないように思われます。

その他、岐阜県関市の「のべぶり岩」に旗振り伝承が残り、地元の古老の伝承によると、江戸時代、のべぶり岩では、小牧山の旗信号を受け取って、飛騨方面に伝えたということです。ただし、小牧市のほうでは伝承は残っていないようです。

「名古屋-小牧山-のべぶり岩(金比羅山)-美濃・飛騨地方」

これらの情報については、7月7日現在、未公表ですが、いずれ、「新ハイキング関西」誌でレポートする予定で、資料を収集中です。

海津市海津町の本阿弥新田では旗振りがありましたが、高畑山は高い畑に由来(西尾寿一)しているようで、旗振り伝承はないようです。(近くの高旗山は旗振り山です。)

桶狭間は、名古屋市緑区・豊明市にまたがっており、いい着目といえます。緑区について何か新資料があれば、教示いただければ幸いです。

_ 小屋番 ― 2006年07月09日 02時25分02秒

初めまして。
 松尾芭蕉の弟子の杜国が米相場で禁止されていた空売りをやって死罪となった。減刑されて渥美半島に流されている。当時のホリエモンだったと思う。こんな歴史を考えても尾張では相当な米相場が発達していたことは想像に難くない。芭蕉のパトロンは鳴海にもいたらしい。そういう想像だけの楽しみで今のところは何の調査もしておりません。悪しからず。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年07月10日 22時14分03秒

緑区というのは杜国に関するものなのですね。どういう本に載っているものなのか知りたいものです。

さて、今度は平成18年7月8日に岐阜県図書館に6時間滞在して、百冊以上の郷土資料を開きました。

「新修大垣市史通史編一」に、手旗信号で、桑名の米相場を多度山の中継所を経て、大垣の米会所に通報したことが記載されていました。これは既に得ていた情報の裏付けです。

新発見の旗振り場は、岐阜県羽島市にありました。「江吉良郷土史全」「羽島市史第三巻」「江吉良・舟橋郷土史第二巻」に次のルートの記載がありました。

桑名-多度山三本杉-江吉良堤-岐阜の権現山

この中で、岐阜の権現山というのは、「旗振り山」の本で述べた岐阜市の相場山に相当しています。

清 信重(きよし のぶしげ)『ふるさと岐阜の物語』(1994年)に、「忘れられた山」と題した一文があって、岐阜市の権現山は明治初期に「相場山」の俗称があって、物見をたてて桑名の米相場を知ったとある。権現山と相場山は同じ地点のようにもとれるが、「北方町志」(大正4年)には、次のルートが記述されている。

桑名-多度山上-岐阜の相場山(権現山の東の山)-北方延会所屋上の受信台

この北方延会所は、維新後廃止されたといい、旗振りは旧幕府時代の商業地としての北方で行われたということになる。

権現山は伊奈波神社の南西のピーク(163m)、相場山は同神社の東南東の尾根のピーク(197m)ということになる。このことは、岐阜県図書館で販売している「岐阜商工案内」(大正5年)の復刻版(2000円)の挿入地図(岐阜市全図)で確認できる。「旗振り山」の本で岐阜市の相場山の出典として示した「図説・美濃の城」に収録の地図(147頁)の「権現山砦」と「相場山砦」の位置とで裏付けることができる。この「岐阜城砦配置と城下町図」の砦配置は精確である。

以上の情報も7月10日現在、未公表で、いずれ、新ハイキング関西誌に公表する予定です。

_ 小屋番 ― 2006年07月11日 22時09分59秒

鳴海と杜国とは直接関係は有りません。
 杜国は今の地下鉄伏見駅の周辺の御園あたりの裕福な米穀商だったようです。28歳位のとき「尾張徳川家」から御法度で禁止されていた空米売買をしたかどで尾張から追放されたそうです。全財産没収という厳しい掟ですからいかに空米売買に手を焼いていたかがわかります。現代でもプロは空売りで大儲けをしていますが当時でも盛んに行われたようです。
 さて史料は名古屋叢書に当ってみられたらいかがですか。名古屋市の図書館ならどこでも揃っています。充実度からつるまい中央図書館の方がいいでしょう。第11巻産業経済編(2)に「延米商濫觴記並歴年記」という史料が一級のもので坪井庄兵衛のことが出ているようです。他の米相場のことも見つかるといいですね。坪井は杜国の本名です。
 別のことですが新潮文庫の「男この言葉」に桑名の財閥諸戸清六のことがでています。かれは幕末から維新にかけて米相場で大儲けしています。桑名市史に何かでているかも知れません。参考まで。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年07月23日 23時27分25秒

平成18年7月23日、再び、愛知県図書館に行ってきました。

今まで未知の旗振り場を、今回は5つ見つけました。

この中に、名古屋市緑区の旗振り場も含まれています!

それは、鳴海町のとなりの大高町にあったのです。

場所は大高山(大高城のあった城山)だそうです。

出典は、榊原邦彦「緑区の史蹟」(鳴海土風会、平成12年)の100頁で、米相場の旗信号の交換台の場所として、次の地点「  」を示していました(・・・の右側の(  )内は柴田の注記)。

 「多度の愛宕山」・・・(多度山)
○「大高山」
○「丹羽郡の本宮山」・・・(犬山市の尾張本宮山)
  「西尾の八面山」
○「岡崎の甲山」・・・(岡崎市六供町の甲山公園)
○「犬山対岸の伊木山」・・・(岐阜県各務原市鵜沼)
  「岐阜の金華山」・・・(伊奈波神社の東方の相場山)
○「黒船来航以後の沿岸警備に於て知多半島南端の見張番所からの旗信号もここ(・・・大高山)で受持つた」

「旗振り山」の本の江戸ルートの紹介(229頁)で、樋口清之「こめと日本人」にある「白子の海岸から知多半島の先端で見ていて・・・」に相当する地点がようやく姿を現したことになるようです。知多半島南端の見張番所がどこなのかはこれから調べるつもりです。

「緑区の史蹟」の記述は、「郷土の新しき史観」という文献によったものだそうです。この文献はまだ直接調べていないので、後日、調べてみます。

愛知・岐阜は桑名・名古屋に近いこともあって、案外、旗振り関係の資料が残されているようです。地道にやっていこうと思います。

蒲郡市の遠望峰山での旗振りの裏付け資料も発見しました。「塩津村誌」(平成10年)の102頁には、次のような記述が見つかりました。

「(5)旗振り場
 遠望峰山の山頂にある2坪余りの石室は、明治10年代まで続いた岡崎・豊橋の各米穀商が米相場を望遠鏡と大旗信号で通報し合った重要な中継所であった。
 最後の旗振り役は柏原村の杉浦作次郎であったと聞いている。」

「延米商濫觴記並歴年記」も確認し、新潮文庫の「男この言葉」も拝読しました。

_ 小屋番 ― 2006年07月26日 20時26分33秒

 かなり収穫があったそうでよかったですね。
 大高にも有ったということは調べるともっと細部にわたるネットが分かりそうですね。鳴海の芭蕉のパトロンは造り酒屋でした。であれば知多半島の常滑辺りでも現在も造り酒屋、酢の醸造が盛んですから米相場に関連する情報網がありそうです。常滑市史もあたれば何かありそうです。ちなみにソニーの創業者は常滑の盛田という造り酒屋出身です。知多本宮山などどうでしようか。造り酒屋は原料米のヘッジに米相場を利用していたんでしょうか。
 三河まで踏み込んでいくとやはり徳川家の本拠であった岡崎市からも何かにおってきます。1等三角点の桑谷山は旗振り山だった可能性大です。
 遠望峰山が旗降山だったとは新発見です。名前からしてユニークと思っていましたが。
 伊木山は今は有名なロッククライミングのゲレンデですよ。時移れば・・・ですね。
 

_ 柴田 昭彦 ― 2006年07月30日 00時56分42秒

平成18年7月29日(土)、名古屋市鶴舞中央図書館に行ってきました。郷土史コーナーで探してみました。

鈴木重一「岡崎地方史話」(昭和51年)の「延米会所①-岡崎米穀取引所の話-」(198頁)に次のような記述を見つけました。

「・・・、桑名から伊勢海をわたって知多郡半田の中継所で受け、最(ママ)に西尾の八ッ面山と桑谷山でキャッチして、それを岡崎のこの望楼に伝達をうける仕組みで、二人一組の旗振り師と望遠鏡をかざして解読する観測手が従事し、・・・」

驚きました! 桑谷山が出てきて、予想的中です!

ただし、遠望峰山から岡崎に伝えたことも知られているので、ごく近くの桑谷山をわざわざ用いたのか、若干、疑いは残りますが、別の業者が競合したという可能性も高く、矛盾はないと思われます。

「常滑市史」には、関連情報はありませんでした。

知多本宮山は、戦前に航空灯台が立ち、以前から注目してきていますが、まったく、情報はでてきません。目立ちすぎるので、かえって、用いられなかったのかもしれません。

かわりに、近くの「知多郡半田の中継所」が姿をあらわしました。桑名から伊勢湾を越えて伝えたというのです。

「半田町史」「半田市誌」には、旗振り通信に関する記述は見られません。

ただ、半田では、明治中期、名古屋、岡崎、豊橋に次いで4番目に商業会議所ができ、さらに、米穀を扱う半田取引所も開設されているので、可能性は高いように思います。

当時、商業会議所が出来たところには米穀取引所の開設が許可されており、名古屋、岡崎、豊橋などと同様である。近くに米の取引所があるかどうかで、旗振りが行われたかどうかが見えてくるように思う。

「図説知多半島の歴史」「南知多町誌」「尾張国知多郡誌」によれば、知多半島の「遠見番所・のろし台」は次のとおりであった(幕末の設置)。

師崎物見番所(知多半島先端、南知多町師崎)・・・異国船警戒の遠見番所
瀬木物見番所(常滑村字北郷)・・・海上船舶往来の監視、廃藩置県の時に廃止

烽火台・・・下記の知多半島東海岸の沿岸7カ所に設置している
 大井(南知多町大井字海田の丘陵上)・・・烽火台は今でも現存(東海地方で唯一)
 布土(美浜町布土の丘陵上)
 長尾(武豊町長尾山、現武豊町役場の位置)
 亀崎(半田市亀崎字高根、高根山、亀崎中学校東)
 緒川(東浦町緒川字西高根、高根山)
 大高(名古屋市緑区大高町字高根山)
 高峰(南知多町内海字高峰、高峰山)

これで、知多半島先端の番所は師崎とわかるが、鈴鹿市の岸岡山からは見えそうにない。知多半島の最高地点の高峰山なら通信可能であるのだが・・・。

上の烽火台の位置は示唆的である。半田の中継所というのは、半田市亀崎高根町であろうか? この高根山は標高50mであるが、亀崎駅の近くにあり、知多半島の東側に偏りすぎているような気もする。のろし台がそのまま旗振り場になったケースもあるだろうが、今のところ、裏付け資料もないので、まったく不明というほかはない。

榊原邦彦著「緑区の史蹟」に引用された、米相場の旗信号の交換台を掲載しているという「郷土の新しき史観」の書は、榊原氏に問い合わせたところ、戦前に出た冊子で入手困難との由(7月28日に返信到着)で、複写をいただけることになりました。新しい情報はないかもしれませんが、是非、内容を確認してみたいと思っています。

愛知県での旗振り通信については、戦前に書かれた郷土史に資料がまだまだ眠っているようです。また、戦後の郷土史家が古老から聞き取りをして書いたものにも、まだ目につかない旗振り情報がありそうです。




_ 小屋番 ― 2006年07月30日 21時13分00秒

随分早いテンポで調査研究が進んで行くようなので何よりです。
 桑谷山は航空灯台があるところですから強くにおっていました。的中して良かったです。のろし台、遠見番所の一覧に布土の地名があるところは知多半島唯一の一等三角点の鍋山(正に丘陵の山)に近い所です。半田からはやや離れていますが調査する価値はあるでしょう。
 話はそれますが布土については角川文庫に柳田国男『地名の研究』があり、P153以下に興味深い解説があります。ふっと、と読ませますが奥三河にも古戸山(ふっとさん)があり、名古屋市の中区金山にも古渡(ふるわたり)があります。古渡は今でこそふるわたりですが地形が原形をとどめておった時代はふっと、と読ませていたんではないと想像しています。柳翁自身も布土なる地名のところはよほど歴史的に古い、と本書で指摘しています。
 また半田市には戦前中島航空機の半田製作所があったところです。いまは富士重工の工場になっています。なぜこんなところに飛行機会社があったのかは謎です。多分広い敷地が必要だったからでしょう。ところで飛行機といえば通信です。通信基地がどこかにあったはずです。それは旗振り場と共通の要素があるかと思います。知多本宮山は名前からして信仰の山ですから近代的なものとは相容れない気分はあります。航空灯台は一時的な戦時体制の所産でしょう。
 緑区の高根山も一等三角点の山です。しかし半田市には遠いです。この点鍋山は桑谷山、渥美半島の大山とトライアングルでネット(三角点網)を形成しています。一等三角点は必ずしも地域の最高峰にあるわけではない。戦前の三角測量は鏡でチカチカ照射し合っていたそうです。岩波文庫の寺田虎彦随筆集全五巻中の「地図を眺めて」に一等三角点の話が詳述されています。要するに相場振りの通信技術の内場所の選定は先駆しておると思います。明治になって外国から導入された三角測量ですが伊能忠敬の地図と狼煙、相場振りの通信技術がベースになって急速な近代化に対応できたんではないでしょうか。以上は余談ですが。
 これを多層的な歴史あるいは文化というんでしょう。色んな視点と角度から研究調査してみてください。

_ 小屋番 ― 2006年07月30日 22時04分25秒

多分豊橋市へも行かれることでしょうから追記しておきます。
 豊橋市周辺の一等三角点はまず三河本宮山があり天測点もある東三河の拠点です。TVの電波塔などが林立する山です。次いで神石山があり、やはり航空灯台がありました。但し東寄りです。この山なみを湖西連峰と言いますが南端に東山があります。ここからは豊橋市街の俯瞰には絶好の場所です。それもそのはずです。別名を松明峠といいます。何か示唆的です。
 まだ分かったわけでは有りませんが岸岡山、鍋山、松明峠と結んで相場情報が伝えられたと想像できますね。豊橋平野に突き出した半島のような地形は歴史的にも重要な拠点だったのは想像に難くない。神石山と松明峠の中間のピークにNHKの中継所があります。
 先述したように一等三角点の選定も航空灯台も最近の電波塔、TV中継塔も昔の砦、狼煙場を踏襲しています。相場振り山も同じことですね。
 豊橋市は東三河経済の拠点で商業の街でもあります。昔は軍都でもありました。米相場は名古屋に次いで盛んだったことでしょう。

_ 小屋番 ― 2006年07月30日 22時55分53秒

もう一つ重要なことを思い出しました。
 7/9のコメントで杜国が渥美半島に流されたことを書きました。実はすぐ近くの大山(1等三角点)、雨乞山にもみはり山、狼煙山があるのです。ですから鍋山から松明峠は距離的に難しいのでまず大山へ送り、松明峠となったかも知れません。また遠望峰山と桑谷山のうち遠望峰山は豊橋方面への中継とも考えられます。海上は視界が悪いことですから。
 以上想像の話ばかりですがご参考まで。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年08月06日 03時06分19秒

いろいろと興味深い話題を提供いただき、ありがとうございます。

私も今まで多数の旗振り場の調査をしてきましたから、烽火場、城跡(砦)、電波塔、旗振り場の立地条件については、似ている点、食い違う点も十分に把握しているつもりです。共通点は「見通しがきく」という一点です。旗振り場の場合は、旗振り人の住居から近くて便利なこと、米相場の取引が行われている地域沿線にあることなど、いくつかの制限事項があって、烽火場や砦跡と共通するケースは比較的少ないです。一等三角点と重なるケースもあまり多くはありません(桑谷山、石堂ヶ岡、石戸山、太田城山、志方城山、足立山、福智山)。近いといえば、生駒山、雄岡山は当てはまるでしょう。これでも旗振り場150カ所のうちの9カ所です。また、山頂にある旗振り場115カ所のうち電波塔があるのは25カ所ぐらいです。

旗振り場の立地条件というのは、見通しがよければよいだけでなく、少ない回数で通信するのに都合の良い場所であることも必要で、実際に実施された場所というのは、人間による恣意的な選択によって決められたということになります。見通しは必要条件であって、十分条件ではないというわけです。

理屈はともかくとして、旗振り通信の廃止(1918年)から88年も経過した現代では、旗振り場の確認はとても困難であることを感じさせられます。

鈴木重一「岡崎地方史話」(昭和51年)の記述の出典と思われるものを愛知県図書館で見つけました。「岡崎商工会議所五十年史」(昭和17年12月)の308頁に次のようにありました。

「・・・、桑名より知多郡(半田附近か)西尾八ッ面山、桑谷山などに中継所を設け、旗振り師と取引所の屋上に頑張る観測師が、遠メガネを通して桑名の建値をキヤツチし、上天気の日には桑名、岡崎間を十分間内外で完全に連絡したと伝へらる、・・・」

文面から、「岡崎地方史話」の出典に間違いなく、「知多郡(半田附近か)」というのが、なぜ、「知多郡半田の中継所」に変えられたのか不明である。昭和17年当時でもうわからないものが、昭和51年で判明したのであろうか?

さて、今まで収集できた資料で、愛知県下の旗振り通信ルートを再現してみると、次のようになると思われます(地形図での計測による、柴田の推定を含む)。

桑名-多度山-名古屋-桶狭間-知立一里山-西尾八ツ面山-遠望峰山-豊橋-嵩山町の山上(富士見岩か?)-浜松

桑名-観音寺山(大府市南端の74.3m峰か?)-半田取引所-八ツ面山-桑谷山-岡崎

観音寺山-横根山(大府市梶田町から中京女子大学、横根町名高山<二ッ池付近>のあたりで、50~55mの丘陵)-岡崎

情報を欲しがる地元のリクエストに応じて、複数のルートが設けられたのであろうと思われる。愛知県内のルートについては、これ以上の追求は難しそうです。この辺りで一区切りにしようと思っています。

さて、のろしルートのほうです。こちらは、ほぼ、確定できました。知多半島の旧版地形図と、東浦町・美浜町の小字図で、地点も確認できました。知多半島の烽火台について一番くわしい情報は、河合克己「知多半島歴史読本」(平成18年)に載っていました。

烽火台・・知多半島東海岸の沿岸6カ所に設置
1.大井(南知多町大井、上苗代の峯、50~60m)
2.布土(美浜町平田の北西1kmの狼煙山、56m)
3.長尾(武豊町長尾山、役場地点、もとは32.1m)
4.亀崎(半田市亀崎高根町、中学校東、48.9m)
5.緒川(東浦町緒川字西高根、もとは83.3m。高根配水池のある、73.8m三角点の北25mの地点)
6.大高(名古屋市緑区大高町字高根山、55.1m)

布土の烽火台は北側、鍋山は南側である。烽火台がそのまま旗振り場になった地点はなさそうである。

知多半島の最高地点にも烽火台が設けられた。
7.高峰(南知多町内海字高峰、高峰山、124.6m)

「郷土の新らしき史観」は8月2日に届きました(郷土の新しき史観ではありませんでした)。

あけて、びっくり、この文献は、長らく探し続けていた、「尾張の史跡と遺物」臨時号(名古屋郷土研究会、昭和十五年七月 )で、犬山出身の歌人、斎藤富三郎氏の執筆した論考13編が収められている(計32頁)。テーマは「文化人類学・人文地理 を背景として 多度、愛宕、香取、桑名、揖斐川を語る」とある。

「愛宕山=旗信号=河川原始文化」(8~10頁)では次のようにある。

「桑名の米相場を、同地よりこの愛宕山に写し、ここより名古屋、大垣、とリレー式に移牒して、・・・」

多度山三本杉は、愛宕山の頂上より更に後峯十余丁の高所にあり、愛宕山は多度神宮の隣の峻峰というから、愛宕神社の裏山のことであろうが、実際に旗振りの行われたのは、三本杉というから、斎藤氏の誤解であろう。

「米相場の経済史観」(18~20頁)には、多度行きの帰路、揖斐川より桑名に下る船の中で、桑名の米相場がなぜ重視されたかについて考えた妄想や仮説が述べられているが、旗振り場の話題はない。

「桑名の鉄文化」(20~22頁)には、桑名の地名に関連して、鍬の語源についての考察がある。この論考の「附記」(22頁)に次のような一文があった。

「米相場の旗信号の交換台たりし地点は、未だ十分に探査して居らぬので確たることは云へぬが、仄聞せる所を左に掲げる。
 愛宕山、大高山、本宮山(丹羽郡楽田)、八面山(西尾東)、甲山(岡崎)、伊木山(夕暮冨士犬山対岸)、金華山(岐阜)この中或は、二三の誤聞があるかも知れぬが、大体は間違ひないと信ずる。旗信号などは、天候の支配を受くることが多いのであるから自然信号に一の備考が附けられてあつたと云ふ。岡崎の古老に聞くに、八面山の旗信号は、天候不良の場合は不確実を条件として、米相場の精算勘定に入つたとのことである。これを霞付相場と称へたさうであるが、霞付とは洵に面白い形容詞ではないか、今ならばハンデキヤツプ附きとでも云ふのであらう。旗信号は肉眼では、些か鮮明を欠くので、俗に云ふ円筒形の遠目鏡を以て、正確を期したことは云ふまでもない。」

「大高と火上の地名考」(24~27頁)には次の一文が見える。

「大高山は標高五十五米突位であるが、(中略)絶好の展望台であるこの展望を利用して、旗信号が行はれたことがあつたのである。」
「嘉永四年、(中略)江戸幕府は蒼皇各藩に命じて、沿岸の警備を厳にせしめた。尾州藩でも(中略)知多半島南端の海岸に見張り番所を設けて(中略)旗信号に依って、名古屋の奉行所に通報する仕組になつてゐたのであるが、その旗信号といふ大役を、この大高山が背負はされてゐたのである。
 また北勢多度神宮に隣る愛宕山が、嘗て米相場の旗信号の交換台をなしたやうに、この大高山もまた、これと同一の働きをしたのである。徳川時代より明治末期まで約三百年の長きに亘る、かうした史実の儼存することは洵に興味深きものであらねばならぬ。
 近来文部省が各地の史蹟を査定して居るが、この大高山などは日本経済史上の米相場の一頁を飾るのみならず嘉永安政に亘る黒船警備の旗信号所として、当然史蹟に指定さるべきものである。」

この記事から、斎藤氏は、知多半島に幕末期に設けられた烽火台の一つである「大高烽火台(高根山)」(55.1m)において、旗信号が行われたというが、実際には、烽火台の役割を担っていたので、食い違っている。大高の高根山で米相場の旗振りが行われたという伝承は残されていないようである。榊原邦彦「緑区の史蹟」では、米相場の旗振りが行われたのは、大高城跡とある。この城山は標高20mである。

奇妙なことに、斎藤氏は「大高と火上の地名考」の26頁で、次のように述べていて、混乱が見られる。

「なほ大高山より西南約十丁に当って、火上の地があり、こゝには熱田神宮の摂社として火上姉子神社が在る。」

ここに言う「大高山」は大高城跡(20m)であり、先の文にあった大高山(高根山、55m)とは異なっている。

以上のように「大高山」についてははっきりしない点も残されており、榊原邦彦氏に問い合わせているところである。

東海道に沿う地域の旗振り通信については、新ハイキング関西62号(2002年1/2月)の旗振り通信の研究の連載6で述べたように、既に、柴田は平成13年(2001年)ごろ、豊橋、浜松、静岡の各市立図書館、神奈川県立図書館、東京都立図書館、静岡市役所のそれぞれに問い合わせて、結局、旗振りの資料は見つからないとのことであった。公的機関での調査には限界があり、実際に、豊橋市立図書館では、市史の旗振りの記述を見逃していたわけであるから、郷土資料の発掘は必要と思われるが、豊橋市美術博物館に問い合わせた結果(平成18年7月21日付け返信)は次の通りでした。

「当時の市史編纂担当者、嵩山町の郷土史家の方々にも連絡を取り確認いたしましたが、嵩山山上で米相場の手旗信号が行われた事実を証明するもの、伝承並びに類似するような事実も確認されておりません。」

愛知県図書館で調べた「郷土史 嵩山」(1993年)にも、旗振りの記述は見られませんでした。

「豊橋市史第3巻」(昭和58年)の旗振りの記事の出典は、「豊橋商工会議所五十年史」(昭和18年2月)の442~3頁にあり、次の通りである。

「当時の豊橋の米相場は桑名の米相場を信号(旗を振る)によつて取り入れたものであつて、知多半島の八面山から蒲郡の遠峯(とぼね)山で信号を受け、そこから豊橋へ信号し豊橋ではその信号を八名郡の嵩山の山上へ伝へ、そこから浜松へ伝へたとのことである。」

岡崎の旗振りの記事がやはり「岡崎商工会議所五十周年史」(昭和17年12月)にあったことは興味深い。二つの会議所は同年に開設され、しかも、五十周年を昭和17年に迎え、両書とも、戦争勃発1周年の12月8日付けの序文で始まっているのである。

それはさておき、昭和17年当時であれば、旗振りの記憶は聞き取りができたであろうし、嵩山の山上というのも偽りではあるまい。おそらく、地元ではなく、外来の者が旗振りを請け負ったために、地元で記憶されなかった可能性が高い。浜松市の郷土史家、神谷昌志氏にも問い合わせてみたが、浜松でも、旗振り伝承は残っていないとのことだった。立地上、電信が目立って用いられ、旗振りの利用も少なかったのであろう。利用が多かった地域は、西尾、岡崎、豊橋であったことが伝承の残り具合からもわかる。特に、岡崎で古老が語ったという内容が、よその地域の旗振り地点と状況を伝えていることに注目したい。

現在、知多半島の半田附近の旗振り場について、河合克己氏に問い合わせている。新しい旗振り場の発見があるかどうか、期待薄だが、「伝承地がない」ということも立派な情報であると思っている次第である。

知多本宮山、鍋山、三河本宮山について、旗振り伝承があるのなら、郷土史に載せてないほうがおかしいぐらいであろう。有名な場所であるからこそ、伝承は、地元に残りやすいのであるから・・・(旗振り人が外部の場合、確認が難しいこともあるが、目撃談が残る場合もあろう)。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年08月06日 14時04分57秒

昭和7~8年頃に、東京~大阪~福岡間に航空灯台が40カ所、建設されて、昭和8年には夜間郵便飛行が始まったそうです。「旗振り山」の本(48頁)で簡単にふれていますが、当時建設の航空灯台は、富士塚(横浜市泉区)、伊豆十国峠、平塚灯台(神奈川)、知多本宮山、関航空灯台(亀山市)、大杣山(亀山市・伊賀市)、鉢伏山(須磨区)などにあったようです。航空ルートの選定に関しては、航空灯台の建設しやすい場所が選ばれたことでしょう。鉢伏山が旗振山に近いというぐらいで、旗振り山=航空灯台というケースはないようです。

東山(松明峠)については興味深いのですが、そこで松明を掲げたという故事があるのでしょうね。もし、旗振りをしたのなら、旗振り峠で、松明峠ではないでしょう。確かに夜間は「火の旗」といって、松明を振って旗振り同様に合図をしたのですが、豊橋から浜松へは旗振り、江戸時代の文化・文政期(1804~30)でも手旗信号とあるので、松明は無関係と思います。何に由来するのかは、いずれ調べたいと思いますが、資料に乏しいように思います(由来がはっきりしていれば、インターネットなどで誰かとりあげているはず)。ただ、夜間に用いた中継所とすれば、可能性はあるかもしれません。

神石山については、以前に登ったことがあります。南東側から上り、西へ葦毛湿原を経て帰りました。ここにも航空灯台があったそうですが、こちらは戦後の建設だったと思います。「旗振り山」の本の294頁のルート図の点線は、神石山を想定(予想?)して作図したものです。単純にいえば、豊橋市街と浜松市街の両方が見える場所で、距離的には浜松が遠くなってしまうので、より東寄りに中継点を設けたと思います。東山は西寄りなので不適当ではないかと思います。直接、見えるものならば、一回で送信すればよいので、浜松方向へは、距離を短くするように配慮したと思います。ただ、それも明治期のことで、江戸時代に用いたルートについては、西寄りの地点もあったかもしれません。

雨乞山については「新・こんなに楽しい愛知の130山」で情報を得ていて、ミハリ山には注目していました。

大山は渥美半島の最高峰で、「和地大山の頂きにノロシ台」という情報も得ていました。渥美半島南岸には、西から順に、伊良湖台場、和地台場、赤羽根台場(中村)、百々台場、久美原遠見番所(標高60m)などが設けられたようですね。

海を越える場合、視界が悪いという指摘はごもっとも。ですから、明治時代の通信ルートは陸上が中心のようです。桑名から知多郡にという例はありますが、この場合は名古屋港をまたぐ程度です。

文化文政期(1804~30)のルートは伊勢湾をひとまたぎしたというのですが、このルートの再現は難しそうです。「白子の海岸から知多半島(愛知県)の先端で見ていて、それから東海道を三島までいく」としか伝わっていない。また、この伝承がどこまで精確なのかもわからないからです。

とはいえ、上野西山(鈴鹿市)に渥美半島のほうへ伝えたという話が残されているので、方向から考えて、妥当なルートは、地図の計測では、次のようになる。松明峠も考えてみました。これは全くの想像です。

上野西山(18キロ)白子の海岸の岸岡山(伊勢湾、29キロ)知多半島南端の高峰山124.6m(28キロ)大山327.9m(31キロ)松明峠(26キロ)浜松

こうすると、上野西山・高峰山・大山は一直線上に並び、見通しもきき、矛盾はない。半島のそれぞれの最高峰を用いることで、画期的なスピードアップができたのではないかと想像する。それでも31キロというのはかなり遠い(8里弱)。5~6里(20~24キロ)が望ましいのだが、江戸時代は11里半というケースもあり、8里なら大丈夫だったのだろう。

実際には、知多半島南部、渥美半島には旗振り場はまだ見つかっていないので、保留しておく他はない。

今後も、おりにふれて、資料さがしをしてみますが、江戸時代のルートはさておいて、明治期のルートについてまとめて、公表しておこうと思っています。

いろいろと貴重なアドバイス、話題提供等、ありがとうございました。今後の調査・研究に生かしていくつもりです。何か旗振り山について参考になることを発見されましたら、また、お聞かせください。

_ 小屋番 ― 2006年08月06日 22時35分07秒

貴殿の著書から山に対するもう一つの視点があることを知っただけでも収穫でした。おまけに私の当て推量まで採り上げていただけて光栄です。
 歴史の深層に潜んでしまった現代では探り当てるのは中々大変なことです。同じことは貴殿が調査に重宝されたであろう各市町村誌(史)の編纂にも言えることです。今常識と思っていても100年後は多数の本を読み返し検討する必要があるわけです。特に山に関する記述は現代でも急速に失われています。地名の由来は地元の老人ですら知らない時代ですから。古い村史ほど役に立つこと大です。
 山全般に関する興味は人後に落ちない、と思っています。いつの間にか山の本も多数手がけるようになってしまいました。今回のネットで得た貴殿の真摯な探求心の凄さに感服です。学ぶところ大いにありこの交流を生かして行きたい。
 
 

_ 柴田 昭彦 ― 2006年08月07日 22時37分02秒

平成18年8月7日(月)、半田市文化財専門委員長・はんだ郷土史研究会顧問等を勤め、知多半島各地の歴史に詳しい、河合克己氏から返事が届いたので、報告したい。

「半田中継所は伝承なく、よくわかりませんが、年代的にみると、亀崎高根山は、亀崎の大富豪、井口半兵衛が明治23年の大演習にむけて修復しておりますので、案外、半田中継所であったかも知れません。当時、半田商工会議所は井口のいる亀崎にあったぐらいですから、考えられることです。」

このようなコメントであった。しかし、亀崎高根山は49.4mである。旧版地形図で計測すると、桑名方面は、標高50mの山々で遮られるので、直接、桑名への送信は不可能な立地にある。他の中継地点を経由すれば可能かもしれないが、観音寺山で中継するぐらいなら、亀崎高根山は用いる必要がないのではないだろうか。しかも、観音寺山と亀崎高根山とは、途中で70mの山で遮られて連絡できない立地にある。

なお、半田市付近には全く旗振り伝承はのこっていないとのことであった。

「常滑市の本宮山は航空灯台があった時期はあるが、(旗振り伝承など)その他の知見なし」

「(鍋山に旗振り伝承は)知見にない」

「高峰も富士ヶ峰も旗振り伝承は知りません。高峰はのろし台として用いられました。」

以上のとおりで、予想どおりの結果でした。

つまり、知多半島の南部には旗振り伝承は見当たらない、という結果となった。

大井の烽火台は、大井集落のすぐ北側の、61.5mの三角点でした。どの文献を見ても、場所が明示してないので奇妙に思っていましたが、予想通り、素直に三角点でした。もっと、わかりやすく案内すればよいのに、と思ったような次第です。

結局、前回に述べたように、観音寺山が「知多郡の中継所」であったという裏付けが出来たのでは、と思います。

_ Holden ― 2006年08月09日 12時00分25秒

小屋番様
愛知アルプス山行記のHoldenです。いつも貴重な情報をありがとうございます。
柴田様、初めまして

お二人の旗振り通信の白熱した議論、興味深く拝見させていただいておりました。
小生、この件に関しては全くの門外漢ですが、岡崎市に旗振り山と思われる山があったのを思い出しましたのでご報告させていただきます。
四等三角点のある俗称北原山という山です。
世界測地系変換以前の点の記(基準点コード:5237-22-7301)には、「旗振り山と伝えられる」との記述があります。
現在の点の記からはこの部分は抹消されておりますが、過去に入手した印刷物が手元にありましたので、スキャンしたものを以下に載せておきます。
http://holden.cool.ne.jp/6069.pdf
尚、正式な点の記は、国土地理院中部地方測量部(名古屋市中区三の丸2-5-1 名古屋合同庁舎第2号館3階)で閲覧可能と思います。

_ 小屋番 ― 2006年08月10日 00時43分32秒

Holden様
貴重な情報の提供をありがとうございます。
柴田氏の『旗振り山』を読んでみましたらすでに掲載されていました。氏の知悉する一番東の拠点とのことです。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年08月10日 02時48分27秒

小屋番さん、Holdenさんのコメントについてのメールありがとうございました。

Holdenさん、こちらこそ、初めまして。大変、貴重な情報提供、ありがとうございました。

「旗振り山」の本の230~231頁で、岡崎市の旗振り場「ネムル沢」について紹介しています。

これは、「おかざき東海風土記」(昭和49年)に載っているもので、平成18年7月には、全く同じような内容の「ネムル沢」の説明が、「本宿小史」(岡崎市立本宿小学校PTA発行、昭和52年)にも載っていることをみつけましたが、「鶇巣村風土記」の小字地図に載せてある「ネムリ沢」の位置から推定して、おそらく、その沢の源流の上のピークである308.6m三角点のことであろうと考えていましたが、はっきりした地点は、「おかざき東海風土記」にも「本宿小史」にも、示されていなかったわけで、今回の情報で、ようやく、旗振り地点の裏付けが取れて確定したことになります。

それにしても、情報は、具体的な地点を残したいものですね。補助的な資料がないと、場所が確定できないのでは、中途半端な情報といわざるを得ません。旗振り場の情報には、間接的な伝聞が多く、聞いた人も、地図の上で示せないというケースがよく見られます。もっとも、江戸時代の旗振りについての伝承であり、無理もないのかもしれません。ちなみに、地形上、この旗振り場は、東南へも、東へも通信できない立地にあり、三河本宮山へも通信できません。おそらく、宮崎村の北原山から見通せるあたりに住む人が、岡崎の相場情報を得るためだけに設けた旗振り場であり、宮崎村で終点だったものと思います。

それにしても、点の記に載せてあったというのには、びっくりでした。選点当時(昭和42年)の、この土地の所有者である柴田芳夫さんが伝承を聞き伝えていたのでしょうね。平成15年の新しい点の記で、なぜ、この伝承を消してしまったのか、残念なことです。

小字「北原山」の範囲は、三角点から東南東方向の328.1mピークまで、東西に1キロにわたる広範囲なので、308.6m三角点を、北原山と呼んでよいものか、迷っていたのであるが、旧「点の記」の要図に、「北原山山頂」とあり、点名の意味かもしれないが、今後は、岡崎市鶇巣町の旗振り場「北原山」と呼称してもよいものと判断したい。

もし、古い「点の記」で、他の地点の旗振りについての心当たりがありましたら、お知らせください。(とはいっても、点の記には、普通、こういう情報は載せないものなんでしょうね。珍しいケースだろうと思います。)

Holdenさん、小屋番さん、ありがとうございました。

_ Holden ― 2006年08月11日 22時05分22秒

小屋番様、掲示板を汚してしまい申し訳ございませんでした。
柴田様、ご丁寧な解説をありがとうございました。大変勉強になりました。

余談ですが、以前国土地理院のサイトに質問を受け付ける掲示板がありました。
そこで「点の記」の記載内容が最小限の事務的な内容に変更されつつあることにクレームをつけたことがあります。
答えは否定的だったと記憶しております。
尤も、これからの測量は電子基準点がメインとなり、三角点標石は今やモニュメントに化しつつあるのが現実で、それも歴史の流れかと思います。
尚、中部地方測量部では古い点の記の閲覧が、申し込めばほぼ図書館並みに閲覧できるようです。
機会がありましたら、宝探しをしてまいりたいと思います。
色々とありがとうございました。

_ 柴田昭彦 ― 2006年08月22日 00時25分22秒

平成18年8月20日、大府市の最高峰、観音寺山に行ってきました。知北平和公園の西側にあり、北峰が三角点(74.3m)、南峰が72m地点(もと75.7m)で展望台がありました。最高峰(北峰)は、「大府市誌資料編民俗」(平成元年)によれば、今では、地元の人は「高根山」と呼んでいるそうです。知多郡一帯には、根のつく山名が多く、根は峰、嶺の意味です。その辺りで、最高地点の丘であれば、必ず、高根山、と呼んでいるらしいです。これは、もう、一般名称であり、高い山、と言っているのと同じようなものです。
展望台に登ってみました。高さ9mぐらいで、登った際の目の高さは7mぐらいなので、目の高さは標高79mということになります。でも、樹木が周囲に茂り、見通せるのは、北側だけで、展望台の名にふさわしくなくなっていました。展望台があるのは、最高地点の証でしょう。北峰の三角点は、樹木が茂り、見晴らしはありません。
この双耳峰が本当に観音寺山で、旗振り地点なのかどうかを裏付けるものは、まったく、発見できませんでしたが、階段の近くで展望があり、桑名方面を見晴らせる地点ということについては、明確にできました。高さ60mぐらいの丘が桑名方向に広がり、海が消えており、それがかえって、桑名の町を見通しやすかったのでは、と感じました。地形上は、ちゃんと見通せる立地にあるのですから、大したものです。

八幡新田駅の近くに「陀々法師」というバス停がありました。各地の巨人伝説で有名ですが、実際に現地で見つけたのは初めてです。駅前ちかくにあったという足跡の形の池は、今はもうないようですが、小字名に残っているというわけです。

鶴舞公園が、「つるまこうえん」で、駅名が「つるまい」ということはご存じだと思いますが、図書館名が、「つるまい」ではなく、「つるま」だということには、驚きました。図書館に行ったとき、玄関に、ローマ字で、tsurumaとあり、i が脱落しているのに気付きました。まさか、と思い、インターネット検索で、「つるま」が正式と知りました。脱落ではなかったのですね。
もっとも、駅名の影響で、どちらも「つるまい」と勘違いして呼ぶことも増えているようですが・・・。

桶狭間に旗振り伝承があるかどうか、榊原邦彦氏から連絡がありました。桶狭間に詳しい人も、聞いたことがないということらしいです。地元では伝承が失なわれてしまったのでしょう。旗振り伝承の検証は難しいですね。

三河本宮山での旗振り伝承は、文献調査の範囲内においては、全くないようです。

「郷土史 嵩山」と前に書いたのですが、「郷土誌 嵩山」が正しい表記でした。郷土史と郷土誌はどう異なるのか、歴史重視か、地誌重視か、ということでしょうか?

丹羽基二さんの訃報、ここのコメントで初めて知りました。丹羽さんの本は、地名研究の分野でも大いに参考になるので、かなり多数、収集していました。親しみやすさが特徴でしょうか。地名の研究でもっと大著を集大成してほしかったのですが、残念です。30万の姓だけでなく、1000万の地名の総括が辞典で完成したなら、どれだけの貢献になったことでしょうか。といっても、1000万の地名は困難でしょう。「地名苗字読み解き事典」と「難読姓氏・地名大事典」「続・難読姓氏・地名大事典」は愛読しています。地名の研究に参考になるからです。もっとも、若干、適切と思えないような地名解釈もありますね。

地名の解明は、知的好奇心をくすぐられるので、資料を集めてきています。「地名用語語源辞典」の巻末の参考文献で手元にないのは2冊のみです。

地名の解釈の個別の事例への適用は相当、困難で、広範囲の知識、総合力が試されるようです。それでも、アマチュアなりの楽しみ方をしていこうと思っています。

昔の人の、素朴な言葉が、そのまま残っていれば、悩まされることもないのでしょうが、かなり変転していて、どんどん元の語形から離れていたりします。それでも、地名が、納得できるように解読できた時は、喜びもひとしおです。地名研究では、皆が同じような道をたどってゆくのでしょうね。





_ 小屋番 ― 2006年08月22日 19時36分02秒

 丹羽基二さんの本には触発されてついつい引き込まれてしまいました。昭和から平成になった際、岐阜県武儀郡に平成という地名があり、全国的に注目されました。早速、平成山に登山に行きました。「へなり」と呼ぶのはご周知の通り。丹羽さんは何かの本でへなり=死体を葬るところ、お墓の意味と解説されていました。宮崎県延岡市の奥に大崩山=おおくえやまがあり、1等三角点の山です。点名は祝子川山ですがほうりがわやまと呼びます。
 祝子川こそ「ほふり」の語源からお墓、死体を葬るところの意味があります。丹羽さんのどんな文献名だったかが思い出せません。このように地名にはとんでもない意味が隠されています。地名の語源には尽きない興味があります。
 ちなみに鶴舞線が開通した際どういう呼び方にするか議論があったかに記憶しています。ツルは水路の意味があり鶴の雅字を当てるのは自然な成行きですね。鶴とくれば舞うの字を当てるのも自然ですが本来の意味を離れていきます。いい例が猿投山(1等三角点)でさなげと呼びます。景行天皇がいたずらする猿を投げた伝説、というのが最も流布した由来ですが「さな」には製鉄に因む意味があるらしいのです。『日本の中の朝鮮文化』にも引用され言及されていました。佐奈という地名は結構あるはずです。
 
 ご出身地の丹波からは福崎郡から松岡国男が出ています。後の柳田國男ですが私は山行の帰りに生家を見学にいったことがあります。長野県飯田市には東京で住んでいた家が移築されています。柳田家は飯田市の家柄だったようです。
 貴方の研究ぶりを垣間見た感じでは柳田さんの後に続く志を引き継いだ気がします。氏は青年当時は文学を志していたようですが有名な歴史上の人物は誰もが関心を持って研究するのに名もない民の暮らしや習俗は忘れられてゆくばかりでしたから今研究しなければならないと取り組み始めたそうです。そして氏の研究の発端はどうも豊橋市出身の菅江真澄だったようです。
 正に旗振りの歴史研究の志と同じことです。
 
 

_ 柴田 昭彦 ― 2006年08月24日 01時13分35秒

平成18年8月20日、観音寺山に行ったあと、愛知県図書館に寄って、いくつか調べてみました。

①観音寺山が高根山と地元で呼ばれているという資料については、前に紹介したとおりです。東海市域で、大府市に接する地域である旧横須賀町については『横須賀町誌』がありましたが、旗振りについてはふれていませんでした。ただ、明治期、米穀の取り扱いにふれた部分もあり、可能性はあるように思いました。

②大山の「のろし台」については、「赤羽根町史」に載っていました。幕末の警戒のためのもので、知多半島の「のろし台」とまったく同じ目的でした。

手元に『国別 城郭・陣屋・要害台場事典』(東京堂出版、2002年)があり、342頁に、「和地台場」の解説があって、関連として、和地大山烽火台が説明されていました。田原藩が天保6年(1833)に大山の頂きに烽火台を設けたとあり、赤羽根番所とその東2キロの高松烽火台を見通すことができたと思われる、とありました。赤羽根台場は中村にあり、その東2キロとは、高松の西の189mのピークでしょう。

③雨乞山のミハリ山については資料がみつかりませんでした。『泉村々史』(昭和31年)、『渥美町史』、ともに雨乞山以外にふれていません。見張りでふれるところがあるのは、沿岸近くでの、魚群発見の目的のみです。高い場所なので、魚群探知ではないのは確かです。

常識的に考えられるのは、戦国時代などで敵軍の見張り場でしょう。幕末の遠見、見張り場というのも可能性が高いと思います。ただし、大山との間で連絡しあったのかもしれませんが、資料は見当たりません。

④松明峠については、『歴史の町ふたがわ』(平成3年)の図版で、「二川村絵図」があり、「松明山」と載っていました。江戸か明治期のものでしょう。

豊橋市立二川小学校「ふたがわ」編集委員会編『ふたがわ 小学校中・高学年用』(昭和39年初版、昭和62年第4版)には、「たいまつ山」と出てきます。標高250.3mまたは標高258mの山として、その山からながめた二川の町の様子を、小学生に説明している副読本です。通読してみましたが、山名の由来については、「チャンチャカ山」(標高107.3m)のことは詳しく説明しているのに、「たいまつ山」の由来には一切ふれていません。

この副読本の巻末の「むかしの本に出ている二川」に、5つの文献が載せられていました。その中の4つには、観音(岩屋観音)や火打坂は必ず出てくるのに、たいまつやまが出てくるのは、1つだけである。

「改元紀行」 太田南畝著 享和元年(1801年)

・・・右に面白き山あり。怪しき石、所々にありて、小松生い茂り、つつじの花咲ける様(さま) 築山(つきやま)の庭の如し。たい松山といふ。・・・

上のようにあることから、1801年当時、すでに、「たいまつ山」という名称が知られていたことがわかる。

このデータから引き出せることは、この呼称が、相場通信とは、関連がない、ということである。三井家の相場通信は、文化文政時代(1804~30)であるから、その時、すでに「たい松山」と呼ばれていたわけである。

松明山あるいは松明峠の呼称の由来として考えられることは、

(A)昔、ここで松明を灯して、(船の航行の安全のための)目印とした。
(B)松明を灯して頂きに登り、千束芝を焚いて雨乞いをした。
(C)夜になると、松明が灯っているような光(狐火?)が見えたという伝説がある。
(D)松明にまつわる故事があったが、昔のことで、その由来がわからなくなったが、名称だけが言い伝えられてきた。

(A)は灯台の役割である。灘の保久良山の常夜灯で「灘の一つ火」と称して船の航行の安全に資した例がある(『旗振り山』の40頁)。
(B)は江戸時代に多いので可能性があるかも。ただ、わざわざ、「松明」という呼称を付ける意味が説明しにくい。これは、(A)(C)も同じ事である。

私自身の感触としては、案外、(D)ということなのかも知れないと思う。山名の由来にはこういう例も多いように思うのである。

「ふじ山」の呼び名の由来は? 
 富士郡の山? 
 (二つと無い美しい姿の)不二の山?
 (山麓線が長く続いて尽きることのない)不尽の山?

ふじ山は、その呼称の由来は不明であろうと、何はともあれ「ふじの山」などですよね。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年08月28日 00時39分53秒

「たいまつ山」について、豊橋市中央図書館に、レファレンスで問い合わせてみました。

お尋ねの「松明山」について、このあたりの昔の地誌の集大成である『三河文献集成近世編』の地理・紀行のところをみてみましたが「松明山」についての記述はありませんでした。また「二川村絵図」(本陣資料館所蔵(二川区寄託))は平成5年に開催された古地図展に出品されました。その説明によると「江戸時代後期の二川村の景観を描いた図であるが、街道枡形に文化7年(1810)建立の秋葉山常夜灯が描かれていることから、同年以降の図であることがわかる。畑を桃色、田を黄色に着色し、街道沿いの民家や寺社を詳細に描くとともに、一里塚、高札場、見附土居も描き込んでいる。」と有ります。

という返信がありました。由来は不明のようです。

松明行事は、虫送りなど、いろいろな形で行われていて、迎え松明、送り松明、火の祭礼「お松明」など、八木透「京都愛宕山と火伏せの祈り」(昭和堂、2006年3月)に出ています。大文字の送り火などは「大型の松明行事」というわけです。こういうような種類の松明行事と、東山(松明峠)が、関係あるのかないのか。

そういえば、京都五山送り火で「法」の字が点火されるのは「東山」(186m)である・・・。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年08月29日 22時27分03秒

豊橋市中央図書館から続報が届きました。

その後次の事がわかりましたのでお知らせします。二川宿本陣資料館で発行した『道中記にみる吉田・二川の名所』(平成12年)の17Pに(6)松明峠として名の由来も含めて1300字程度の記述がありました。

以上のとおりで、記述内容にはふれてありませんでした。複写に応じるとのことで申し込んだので、その返事待ちというところです。どんな内容か楽しみです。

8月22日のコメントでふれられていた「平成」の地名の由来が載せてある本を見つけました。

手元の本を1冊、ぱっと開いたら、偶然、載っているのを発見しました。

丹羽基二『祖先がここまでわかるおもしろ地名史』(青春出版社、1990年)の104~106頁には、

実は恐い「平成」の意味

・・・平成はやまとことばではヘナリである。この地名は岐阜県武儀[むぎ]郡武儀町に小地名として現存する。津保川に合流する平成谷下流の地である。その北が祖父川や寺谷洞。それで賢明な読者なら、ハッと気がつくはずだ。ヘナリとは墓地なのだ。
 皆さんは野辺[のべ]送りというコトバをご存じであろう。死者を野[の]の辺[へ](はし)まで送り、死体を葬[ほう]って(抛って)帰る。死霊はそこから山の奥の祖地に行く。寺谷も祖父の関連地名もそれをあらわす。ヘナリは、<辺に在る>という意味である。
 武儀町にあるこの地名は、みな一体をなしていることが分かる。・・・  (注: 文中、[ ]内は、ルビ)

新書版のこの本は、加筆修正、改題されて、『【地名】でわかるおもしろ起<ルーツ>源』(青春出版社、1996年)として出ていて、こちらのほうの「平成」は、105~107頁に載っていました。内容は同一です。

山と高原地図「京都北山1」(昭文社)を開くと、寺谷、祖父谷、ソブ谷といった谷名が複数、見つかる。関連があるのだろうか。「へなり」という地名はないようだが。

谷名は、なかなか興味深い。以前から、語源に関して、まとめてみたいと思っているのだが、容易ではなさそうである。手強いのでかえって挑戦してみたいのではあるが・・・。旗振り通信と違って、この方面の蓄積は、かなりあるのではないかと思う。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年09月08日 23時24分12秒

平成18年9月8日、豊橋市中央図書館から、二川宿本陣資料館で発行した『道中記にみる吉田・二川の名所』(平成12年)の17頁の複写が届きました。

松明峠の名の由縁については、次の二つだけが、江戸時代の文献に載せてあるようです。原文の引用はなく、現代風に意訳して紹介してありました。

(名の由縁1)
出典: 林花翁『三河雀』(宝永4年、1707年)
「昔、高足の庄司という盗人がこの山に住んでいたが、高雄の文覚が兵衛の佐(原注:源頼朝のこと)に変を勧め、白川法皇の院宣を乞いに京へ上った時、ここ(筆者注:松明峠のこと)で文覚を剥ぎ取ったという。物見火燃峠ともいう」という伝説を載せている。

(名の由縁2)
出典: 高力種信(猿猴庵)編・画『東街便覧図略』(天明6年=1786年頃成立、寛政7年=1795年11月序)
「ここを松明峠というのは、昔追はぎがいて、飯村辺りの松林にも同類の者がいたので、互いに出る時刻を知らせるため、峠で松明を振って合図をしたことによって、このように名付けたと里人は語っている」とある。

これ以外の文献には、松明峠の名についてふれるだけで、由縁は載せられていない。

松明峠は、江戸期の道中記などに、たいまつ峠、たいまつ山、松明山、火把峠、物見火燃峠、などと表記されている。

いずれも、そこで、松明の火をともしたことが由縁であることがわかる。

名の由縁1では、伝説はともかくとして、そこで文覚を剥ぎ取ったことがどうして「松明峠」「物見火燃峠」の名につながるのか、よくわからない。原文にあたれば、もう少し説明があるのかもしれない。多分、盗人が、夜間に、文覚の姿を見分けるために、火を燃やしたということなのだろう。

名の由縁2に従えば、松明峠の名は、松明を振って合図したことに由来しており、その合図は、米相場のためのものではなく、追いはぎが仲間への通信のために愛用(?)したものということになる。昔の旅は、命がけ、追いはぎの出没した当時の山道の様子を物語るものとして興味深い。

筆者は、松明峠の由来として、8月24日に、 (A)船の航行の目印、(B)雨乞いのための松明、(C)狐火伝説、(D)松明の故事があったが、その由来が忘れられた、といった推理をしたが、追いはぎについては、思い浮かばなかった。江戸時代当時の街道での状況をもっとつかんでおく必要があることを考えさせられた。

何はともあれ、こうして、従来、ほとんど知られていなかった松明峠の語源がほぼ解明されたことは喜ばしいことであった。大阪府立図書館には、これら二つの文献が収録された本が所蔵されているので、機会があれば、原文にあたってみたいと思っている。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年09月12日 22時14分33秒

平成18年9月12日、夕方、大阪府立中央図書館で、「東街便覧図略 巻一」(名古屋市博物館、2001年)を調べてみました。松明峠の名の由来に関する箇所の原文は次のようになっていました(101頁)。

たひまつ峠は、観音山に向ふ(此山、観音山よりは少し先きにあり)。爰をたひまつ峠と呼ぶ事は、昔此山に追はぎ有て、いむれなどいふ辺の松林にも同類の者有しかば、たがひに出る時刻を知らん為、此山の峠にて松明(たいまつ)をふりて相図をせし故に、斯名づけしとかや。里人の物語なり。・・・

文中の観音山は、岩屋観音のある岩屋山のことである。

三河雀を収めた本は、大阪府立中之島図書館のほうにあるので、後日、調べてみます。

_ 柴田 昭彦 ― 2006年09月13日 23時37分03秒

平成18年9月13日、夕方、大阪府立中之島図書館で、「近世文学資料類従 古板地誌編13 三河雀・身延鑑・身延のみちの記」(勉誠社、昭和53年)を調べてみました。「三河雀」の該当箇所は次の通り(41頁)。

「二川駅窟堂世像本尊観音 昔 高足の庄司と云盗人 此山に住 高雄の文覚 兵衛の佐 変をすゝめ 白川ノ法皇の院宣を乞に のほりし時 此所にて文覚をはぎ取と云 物見火燃峠と云う」

赤木文庫の原本の影印本なので、くずし字の読み取りにあるいは勘違いがあるかもしれないが、文意はそう違わないと思う。

結局のところ、序文に「宝永四丁亥 林鐘日 三州御油駅 花翁」とある、この「三河雀」には、「たいまつ峠」の名は見えず、1707年当時の呼び名は「物見火燃峠」であったことがわかる。

つまり、松明峠の語源にふれた文献は、ただ1冊、前回に紹介した「東街便覧図略」(1795年の序文)のみということになりそうである。

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