佐渡山2006年05月02日

 4/29から4/30にかけて強行軍となったが信州の山スキーを楽しんだ。もう1日欲しいが飛び石連休では止むを得ない。
 戸隠高原の一角にある大橋に着いたのが午前4時前である。名古屋から約340kmもあるから東海道なら東京よりも遠い。殆ど高速道路のドライブだから、と見ていたが4時間もかかったのは当然である。寂しい戸隠高原の片隅から種池に入る林道の除雪部分にテントを張ってさてもう寝ようという時刻が小鳥が鳴き始めた午前4時半であった。降雨率の芳しくないこともあって29日の行動は登頂は半々の確率であった。それに加えて睡眠不足は必至。 しかし、一寝入りしてすっかり夜が明けてみると空は快晴である。朝食もしっかり食べて大橋の登山口を出発したのは9時半頃であった。シールを貼って唐松の明るい林の中の林道を黒姫山の方を目指して歩く。傾斜は殆どない。黒姫山への案内板を右に見送って左の道に入る。
 林道の終点からもう一つ小さな尾根が佐渡山鞍部から下りているのでその尾根への取り付きを探す。沢はもう水の流れが見えていて雪橋がないと渡れない。沢に沿ってやや高く登った地点で右岸に渡れた。
 尾根にはブナの大木が残り、急斜面が続いている。シールを利かせながらジグザグに登る。帰りの滑降では決行楽しめそうである。W、Kの両氏が遅れ始めたのでしばらく待ったが中々来ないので先に登った。どうせシュプールの後がある。それにしても夏道があれば雪のない時期に再び来て見たいほど自然の濃い山だ。長野県の無名の山ながら非凡なところである。
 尾根の途中から左折して行くと鞍部である。ここでテントを張っても面白い。後続はWが、かなり遅れてKが着いた。今日の行動は基本的にはここまでだから佐渡山を空身で往復して時間をつぶそう、と決まった。
 ザックがないと開放感で一杯であるからスイスイ登れる。ブナ、ダケカンバの疎林であるから雰囲気もいい。あっという間に尾根の一角に着いた。目の前には黒姫山が鎮座していた。山頂からは弓なりになった雪庇の付いた尾根が続いていた。スキーには申し分ない広さである。雪は締まっているが尾根に沿って割れ目が走るから崩壊の危険がある。なるたけ樹林帯の側を歩いた。
 山頂に立つと360度の大パノラマが広がっていた。何ということだ。名山ばかりぐるりと取り囲まれているではないか。しばらくは絶句した。乙妻、飯綱を除くと登った山ばかりだ。特に高妻山はいい。妙高山から金山にかけての白い山なみもいい。1827mの標高は周囲の連山をやや仰ぎ見る高さであるから展望台として申し分ない。
 十分な展望を楽しんだ。後はシールを剥がして滑降する。幸いまだ腐っては居ないから回転が出来る。尾根から鞍部へと滑りこむ。標高差300mはあっという間である。
 どこでテントを張るか、相談したが水の十分確保できそうな源流部まで下って見ることにした。鞍部から巨木の中を若干滑ると水流が見えた。対岸へも渡れる。明日の出発地点としてもいい所であると判断。ここでテントを設営した。今回4人用テントを購入して初めて使う。程よい大きさと軽い重量が動機であった。中に入ると高さは124センチもあるから頭上の空間もあり居住性は申し分ない。
 有り余る時間はビールの乾杯で始まった。まだ明るかったが楽しい時間である。夕食も酒や焼酎を飲み干して鍋をつつきながら過ぎていった。
 30日は早くに起きたが出発は6時半となる。今日も空は青い。スキーをはいて源流の広い雪の河原を滑る。すると別のパーティがテントを撤収中であった。彼らはスキーは持っていなかったのでスノウシューで歩いて登るのであろう。新潟県境の雪の谷を渡ると一段と広い。沢は大きく蛇行して広くなる。やや狭まった辺りで雪橋が切れて渡れなくなった。崩壊寸前では危険である。高巻きも伺って見たが急斜面であるしスキーを脱がないと危ない。結局脱いで沢を渡った。そして右岸を下ってみたが左岸とが崖で隔てられしかも地図で見当するよりも深い。山を見上げると乙妻山の北東斜面が見えている。あれが今回の最大の狙いであった。対岸への渡渉地点を見出せないまま時間が過ぎていくばかり。午前8時40分で対岸にもし渡れても往復5時間と鞍部への1時間、尾根の下り1時間を合算すると7時間かかる。登山口へは16時頃となるがぎりぎりである。
 乙妻山の山頂は先ほどまで青空だったがうす曇りになってきた。今日の天気はもう下り坂である。まだ適わぬ渡渉と時間切れで止む無く敗退を決定。次のために右岸に沿って渡渉地点を探りながら登り返した。結局どこも雪が厚く、雪橋は見出せず、水量は多く、渡渉は困難であった。まるで深い用水路を渡らんとするごときである。このルートは3月下旬の記録が多く散見されることからも4月下旬では無理であった。乙見ダムから林道のアプローチで再度挑戦した方が良さそうである。
 再び渡渉して元のルートを溯ってテントサイトに着いた。片付けて鞍部まで登り返す。ザックの重さを考えて若干慎重に滑降した。林道まではあっけなく滑った。すると若いテレマーカーに出会った。単独である。佐渡山を日帰りで往復するとか。知る人ぞ知る山であろう。
 殆ど滑らない林道をストックで押しながら登山口へ戻った。今回は初日に佐渡山を往復しておいて正解であった。ザックをクルマに納めて戸隠高原の道路を走った。前夜には想像できないほどのクルマが入っていた。Kさんの案内で戸隠神社の奥にある神告げのお湯に入湯した。掛け流しらしい。中々いい湯であった。
 帰路は信濃町ICまで戻らず、高原道路をドライブしながら長野市内を通過して長野ICから高速に入った。

三ッ瀬明神山と宇連山2006年05月04日

 5/3と5/4と立て続けに奥三河の山に登る。どちらもホソバシャクナゲを見たかったからである。だが明神山には既になく、宇連山の山麓から中腹にかけてに咲いていた。すると明神の稜線の株もこれからであろうか。
 この地方特有の種であるらしい。なぜ葉が細いのか。どちらも山頂まで露岩が出ているから全山岩塊であり、水の浸透は浅く、植物も大木まで育たないからであろう。葉を細くすることでこの地に適応したのであろう。元々稜線は栄養分が少ない。それゆえツツジ科の植物が多い。雨で絶えず栄養分が流されるやせた尾根に多いアセビは代表である。アカヤシオもその仲間である。

奥三河の山々2006年05月07日

 5/3は三瀬から三瀬明神山、5/4は県民の森から宇連山に遊んだ。5/5は一服して片付けやらクルマの手入れに半日を費やして午後からまた三河を経巡るドライブに出た。
 巴山、くらがり渓谷、鳳来寺山など各地の歌碑の撮影に回った。中でもくらがり渓谷は行楽の客で一杯であった。ここの渓谷はもはや自然の趣に乏しいのであるが都会から近くて簡単に野外での飲食を楽しめるしマス釣も楽しめる。いわば擬似自然体験ができるわけである。夜は田口の奥三河総合センターに泊った。日帰り圏で泊るのは贅沢なものであるがこんな機会でもないと泊れない。S君、Y君、Yさん、Uさんのメンバーはもう先着していた。
 5/6は田峰城址に行った。200円の入場料をとられたが300円くらいの説明はしてくれた。とにかく眺めがいい。山城の資格十分である。その後は落目に行って撮影した。帰りに笹頭山に登った。昔道を尋ねた民家のお年よりはもう亡くなられた。同じ年恰好なので本人と間違ったが息子さんたちである。すでに70歳代という。私の記憶では25年前であるからもう生きているわけもないのである。今は休日のみ家を維持するためにだけ神奈川県から帰宅するという。
 栗島からの峠道から1時間もかからなかった。新緑に覆われた山頂は素晴らしい。一部樹木が伐採されて大鈴山、平山明神山がよく見渡せた。山のよさだけは変らないで欲しい。下山後は田峰観音にお参りした。
 次は鳳来寺山である。どこも駐車場は満杯であった。1日400円也、というPに停めて撮影に行く。その後は自然博物館で横山先生の講演があると知って聴講した。「奥三河の知られざる金山史」をテーマに話された。故藤城豊氏とは昵懇の間柄と初めて知った。また藤城氏の令息も来場されていた。豊橋市の藤城氏のお宅を訪ねて氏の「津具金山」を1冊譲っていただいた。当時はもう他界されて未亡人が応対してくださった。「本をお書きになるのですか」と尋ねられたが当時はまだ予定はなかった。今回「新日本山岳誌」のバックグランウンドの知識となった。譲り受けておいてよかった。これも巡りあわせである。
 最後には私も出来山の金山について質問させてもらった。あれは金鉱が良く似ているので武田氏方の山師も勘違いしたらしい。信玄沢とか金沢、金蔵連など金にまつわる地名の多い割には金は出なかったようだ。津具金山には「見出」という地名があり、何を見出すかといえば当然金である。いかに埋蔵量の豊富な金山であったか、地名が如実に語っている。そして今も金堀は続いているらしい。
 終った後は総合センターに戻って解散した。あらたにチエックインの手続きをして新しい部屋をあてがわれた。5時過ぎにHさんがやって来られた。夜はスライドを見せてもらって写真のチエックをした。
 5/7は朝から雨。雨の田口を出てあちこち立ち寄りながら名古屋に帰った。名倉アグリステーションでは昔懐かしい茎が赤みを帯びたホウレン草を売っていたので買い求めた。子供の頃は皆こんなホウレン草であったと記憶している。食べるとどんな味がするであろう。検索でヒットする件数はまだ多くはない。

卯の花くたし2006年05月10日

 GWは連続的な好天に恵まれた。ところが一転して7日からはじめじめした長雨が続く。これは「卯の花くたし」というそうだ。卯の花を腐らせる、という意味があるという。週末の土曜日も雨なにりそう。入梅までに一度はある長雨である。この雨は新緑の山から万緑の山へと衣替えしていく力がある。
 6月は私の好きな季節である。残雪を一杯吸い込んだ大地から水分を補給されてブナや他の落葉広葉樹が育つ。渓流魚も羽虫を捕らえんと川面からジャンプして捕獲する。渓流釣も一度は足を運びたい。すべてが育っていく季節の到来間近である。
 新聞報道によると5/6に乗鞍岳の前衛峰である丸黒山に登った73歳のお年寄りが5/7になっても下山しないという。そして今日の新聞には一旦捜索を打ち切る旨の記事があった。残雪によって道に迷ったとしか思えない。2000m近い標高と残雪を考えると残念ながら生存の見込み薄であるがマイナーな山が好きで単独ならばそれなりの準備もしているか、と案じる。おそらく曇天続きで視界を得るまで動かないでいるならいいが。十分な食料と暖かい衣料、命を繋ぐものはこれしかない。
 この春、奥美濃の1000級の土蔵岳でも遭難死された58歳の登山者がいた。この方も単独であった。奥美濃のガイドブックも手軽に手に入るようになった。その分慎重さを失ったように思える。5万図一枚であの尾根この谷とさまよいながら山頂に登り、或いは一発では登らせてもらえず、再度向っていく山もあった。目標を持つことはいいことだが消化することが目的になってはいないか。丸黒山も土蔵岳も素人が雪のある時期に単独で行く山ではないように想う。

山崩れ2006年05月13日

 岐阜県の白川村に帰雲山という山がある。かつては山中に帰雲城というお城があり人が住んでいたらしいが山崩れで埋没してしまった。それだけなら特に気も引かないが城には財宝が残されたという話がついている。そこで本気になって探す人が昔から絶えないのである。最近は小説まで書かれた。まだ財宝は見つかっていない。荘川の左岸のR156には看板があり幻の帰雲城の所在を今に伝えている。余り見つからないので一説には左岸という説もある。
 昨日は揖斐川で山崩れがあった。高さ90mに亘って崩壊し揖斐川にまで土砂がなだれ込んだ。一時は揖斐川を堰き止めるんではないか、と警戒された。その土砂が対岸にまで及ぶから一帯は通行止めであろう。こうした報道を知って前述の話を思いついたのである。やはり昔もあったであろう。ここは人が住んでいないからそんな物語は生まれないが。
 登山口に行く途上、よく山間部をドライブ中に地すべり警戒地域の看板を見ることがある。よくこんな危険な地域に住めるものだ、と思うが昔からの住処であればおいそれと引越しもできまい。
 何と日本はリスクの多い国土であることよ。特に岐阜県は山が低く、林業が発達しており、山は痛めつけられている。土地が不動産だなんて人間の勝手な仕組み上のことでしかない。
 今日は土曜日が休みで久々に片づけが進んだ。全部は済まないので切り上げて午後からは栄に出た。リバーサルフイルムで撮影したポジのスライド用のスクリーンを捜し歩いた。デジカメ全盛時代に果たしてどこの大手カメラ店も置いてない。足を棒にして上前津と栄間を歩いた。諦めかかって上前津のK事務用品店に飛び込んだら5000円程度であったが取り寄せになった。他の人の映像を見て懐かしむと同時にPCの画像なんて比較にならないほど美しい。
 その足でJACの総会に出席。型通りの風景である。来賓のY氏は不動産鑑定士であった。土地の値上がりはまだ東京だけの話という。が名古屋駅前の賑わいには驚いたそうな。全国でも名古屋は特に活発だという。値崩れを起こした土地の値段が戻るのも近い。

猿投の森を歩く2006年05月14日

 瀬戸から東濃にかけての山々は700年も昔から続いた陶器生産の為に樹木が刈り尽くされた。戦後は特に燃料の不足から周囲の里山の樹木は刈り尽くされて禿山になった。戦後は失対事業として針葉樹の植林が施されて緑を取り戻した。禿山になった際人は赤松を植えた。やせた土地には松しか根がつかなかったのであろう。燃料革命で薪炭林は伐採を逃れ今度は伸びるに任せる状態となった。一部は杉、桧が植林されているが二次林が美しい山々に生まれ変わった。
 JAC東海支部は県有林の一部を借り受けて少しずつ手入れしながら森を育てる試みを始めてようやく成果の一端が見え始めた。N氏に案内してもらって猿投の森の一部始終を見て歩いた。
 会場は雲興寺からの東海自然歩道が下って小広い平に着いたところから奥の一帯である。まず林道に特別に走行許可を得て入山。作業小屋のあるところにクルマを停める。そこから杉の植林内に入り、尾根に上がる。すると信じられないくらいの山桜の大木が多かった。母樹としてのこされたのであろうか。里人にも大切にされたのであろう。尾根はこのまま登ると自然歩道と合流するし下ればトイレのある元の広場にでる。ここではマキガラシなる間伐の方法を見られる。
 広場から雲興寺に戻るように歩いて右折する。ここらは地形図でもコンターが広く見た目にも湿地帯に見える。林床に落ちていた倒木や枝を整理すると見違えるような綺麗な林になった、という。そしてカンアオイが咲いていた。ここは特にカンアオイが多い。ギフチョウが卵を産む草花として知られる。幼虫からさなぎを経て美しいギフチョウが乱舞するのはいつごろであろうか。松を特に残す平、林の一角を切り開いて光を入れる試み。そんな説明を受けながら古窯群を通過する。特に説明などはされていない。捨てられた陶器の破片が散乱し炭焼き窯らしい窯跡も見られた。
 こもれびの美しい林を歩きながら癒される気がする。一旦沢沿いまで下る。対岸に渡ると不思議な溝が見つかった。浅いU字溝である。これは先にも見たが私は登り窯の跡、と思ったがN氏はキンマ道という説である。しかし、滑りやすくする枕木が見あたらない。これは「アラシ」ではないか。と思った。アラシとは岩科小一郎著「山ことば辞典」によると山の急斜面の上から木材などを投げ下ろす場所、またはそうする為に生じた溝とある。
 そんな話をしながらまた車止めに戻る。ここで昼食。食後は再び林道の終点まで歩き、あとは山道を尾根まで上がる。これは先の近道の続きである。自然歩道に合流して左折し、猿投山に向う。いい風であるが少し小寒いくらいである。
 山頂の手前の休憩所に到着。一休みする。ここで尾張、裏に三河と書かれたぼろぼろの標石をみる。別の面にはデフォルメされた宮らしい文字があった。これは宮三角点と呼ばれる。宮内省の管轄であった。かつては天皇家の財産であったか。
 この場所から尾根の入口に枝でとうせんぼしてある道に入る。急であるが中々よく踏まれたいい道だ。どんどん下ると鉄塔に出合う。そのまま下っていくと車止めに戻れた。これでほぼ森作りの会場を垣間見たことになる。
 森は皆伐すると復元に多大な年月と人手、資金を要する。少しづつ手入れしながら森を利用して恵みを得る、という発想に今は戻らなければならない。コンビニ大手のローソンが資金を出してくれたのもそんな時代の流れに企業も敏感に反応するようになったのである。
 愛知県には明治40年から大正13年まで林務官吏として赴任した歌人・依田秋圃の歌には大正13年に
  ”尾張なる瀬戸のはげ山陶窯のうしろの柿は捥ぎて無かるらむ”
というのがあった。猿投山と特定できないが当時でもはげ山が目に付いたことは否めない。尾州回想の中の1首である。

西近江の山・武奈ヶ嶽から三重ヶ岳縦走記2006年05月21日

 20日は雨。それでも午後から晴れる見込みで出かけた。ところが現地は五月雨そのものであった。仕方なくB面の企画で凌いだ。 
 第一には八百比丘尼の入定の地の空印寺を訪ねるチャンスであった。800歳まで生きた伝説の尼さんの話である。次は久須夜ヶ岳への登頂のチャンスであったが第一駐車場までドライブしたのはいいが視界5m以内という濃霧で1等三角点の所在が皆目見当がつかないで動き回っていた。最後にここしかない、という作業道を下って登り返すと三角点はあった。Pから3分程度と聞いていたが6人で1時間半も探し回った挙句の果であった。これで今日は空振りということは避けられた。後は羽賀寺の国宝である十一面観音像を拝観した。続いて多田寺にも行って見たが留守で入れなかった。結局その後は宿へ繰り込んだ。
 21日は快晴とまではいかないが好天であった。滋賀県まで戻って石田川ダムの先のワサ谷林道の終点まで歩き明瞭な尾根を登った。JCPから武奈ヶ嶽まで行くが新緑が素晴らしい稜線歩きを堪能した。春が遅いこと、昨日の雨で洗われるような緑の山々であった。山頂からは三重岳までの整備されたばかりの稜線を歩いた。所々に池や沼があり鈴鹿の御池岳を思い起こした。稜線の樹種はオオイタヤメイゲツであり石灰岩の山であるから似ているのは当然か。山頂の近くにでは残雪も見た。970mの山にしては珍しい。三重岳には沢山の登山者がいた。人気の山らしい。下山路は最短距離の河内谷林道への道を選んだが途中で二手に目印が分かれておりメンバーの1人が正しい最短ルートを下り、6人は間違った尾根ルートに迷い込んでしまった。途中で気がつき、分岐まで戻り最短ルートを確認しながら下山して我々の間違いに気がついた。気が気でないのは一人下ったMさんである。林道に真っ先に下ってクルマを確認してほっとしたらしい。残りのメンバーはその間は尾根上で疑心暗鬼で下っていたから狐につままれたようなことになった。
 後で大笑いになったのは無事であったからである。道迷い遭難の二文字がチラついたが案外こんなことで起きるのかも知れない。下山後は最寄の温泉で汗を流した。

新刊『旗振り山』2006年05月25日

 京都のナカニシヤ出版から『旗振り山』が出版された。著者は柴田昭彦氏で45歳の養護学校教師というから畑違いもいいところである。まだ購入していないが久々に購買欲の湧く本である。
 JACの会報で知って早速Nさんにも教えてあげた。Nさんには養老山地の多度山の北にある狐平山に行ってみようと、以前から誘っている。狐平山こそは相場振り山であった。「養老の三角点」というHPのリンクで偶然知った山であった。
 Nさんの勤務先の創業者Gさんはこの当時の米相場で大儲けしたらしい。そして三越、松坂屋などが建ち並ぶ大津通り周辺、檀渓通り周辺の土地を買った。江戸時代は武家屋敷だった不動産は駐車場となって毎日収益を揚げている。
 相場の情報は数字を旗を振って表現したという。売買の情報は堂島と名古屋を結んで毎日旗が振られて双眼鏡で読みとられて主人にもたらされたであろう。Gさんの銅像が海津市に建立されているというから情報の拠点となっていたのであろうか。
 すると鈴鹿南部の高畑山もその類であろうか。畑は旗の当て字かも知れない。今の緑区辺りにもあるかも知れない。